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取材記事内を検索ワード「碑」で検索した結果,396件の記事が見つかりました。

【津山人】駒井匏軒翁碑(鶴山公園内)

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 駒井匏軒は幹夫津山候に仕へて先手弓頭となり祿五十石を食み、學問所教授を兼ぬ。兵學に通じ詩歌に巧に又書を善くす最も明楽に精通し特に横笛の妙手たり。晩年惟を垂れ名けて啓蒙學舎と曰ひ廣く青年子弟を数ふ。明治十二年七月歿す。歳五十六。匏軒文稿同詩稿の著あり家に藏す。(文:苫田郡誌より)(2017年6月14日撮影)

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山口誓子 文学碑(衆楽園)

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「絲櫻水にも地にも枝を垂れ」(衆楽園)
 山口 誓子(やまぐち せいし)明治34年京都市生。昭和23年、俳誌「天狼」を創刊、主宰。
昭和54年、西東三鬼の「花冷え碑」対面に訪れた折、衆楽園を吟行しこの句を残した。平成4年文化功労者顕彰。「激浪」「遠星」「七曜」などの句集がある。(文:津山文学碑めぐり)(2016年11月12日撮影)

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米町

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医王山 等覚寺(大字宮尾)旧久米郡 (2014年9月17日取材)
天台宗の寺院である。作陽誌には嘉祥三(850)年の建立とあり、又、貞観二(860)年三月、天台座主慈覚大師が、清和天皇の勅命を奉じて建立したものともされている。何れにしても平安前期の開山創立ということになる。往古は十二坊もあったといわれるが保元年中(1156~1159)火災により末房悉(ことごと)く消失した。それから約六百年ばかりの間は様子がわからないが、江戸時代になって天和二(1682)年五月梁行二間、桁行二間の本堂が建てられ、それから九年の目の元禄四(1691)年三月十二日には庫裏が建築された。庫裏は敷坪十二大工、備前國奥(邑久)郡上山田村、光義次左衛門となっている。それから五十五年目の天明三(1783)年には鎮守八幡堂・門・飛境内の観音庵・大日堂が出来上がった。

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新見御殿町まち歩き【1】

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2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
 新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
 当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。

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夜泣き地蔵(西吉田)

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 地蔵の前に3っの石塔があり、左の自然石には、正面に南無阿彌陀仏、享保11年(1726)年○月とあり、徳川吉宗の時代に建てられたと思います。右の石碑は、正面に奉納大乘妙典六十六部、右に、文化6年(1806年)2月とあります。六十六部とは、虚無僧のことで行者です、この行者が、地蔵を寄進したのではないかと推察できます。
昔からの言い伝えによると、後醍醐天皇が、この地を通られた時、夜泣きする赤ん坊の泣き声を耳にし、地蔵を作って祀るように、住人に伝えたのがきっかけで作られたと言われています。【津山朝日新聞社より】(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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役の行者供養石(金井)

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役の行者供養石(えんのぎょうしゃくようとう)安永3年(1774)
 道仙寺【東粟倉村・現在美作市後山】霊山後山を管理する真言宗の寺、後山では、行基・空海・宮本武蔵が修行したと伝えられています。
 その道仙寺の行者が行き倒れになって、ここに供養石を建て、金井の地区の人が年に一度参られています。(大崎公民館前)

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お里んの碑(故郷を愛した人情作家 棟田 博)

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 故郷を愛した人情作家 棟田 博(明治41~昭和63)が、故郷を題材にした作品『ハンザキ大明神』、『美作ノ国吉井川』、『宮本武蔵』、『そして、御犬小屋が残った』などがあり、多くがドラマ化された。なかでも吉井川を往来していた高瀬舟をテーマにした『美作ノ国吉井川』の女主人公・お里んの碑が津山市民の手で愛染寺に建てられた。昭和47年には津山市文化賞を受賞している。

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徳守神社墓地入口にある石碑

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 2015年4月28日撮影のこの石碑は、津山市小田中にある徳守神社墓地の入口にある。
何気なく通っていた道ですが、ふと見ると字がうっすらと見えてきたので、ご近所の方に伺うと「私の子どもの頃からあったもので、よく座っていたわ~。そんなこと気が付かなかった!」と驚いていらっしゃいました。徳守神社でお尋ねしても解らなかった石碑。さて、なんの石碑でしょうか?

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茶屋林道標(因幡街道)

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茶屋林道標(勝北町杉宮) 町文化財(石造物) 昭和50年4月1日指定
 茶屋林の旧国道沿いに立っている道標で、南面に 右金森山新善光寺道、西面に 左いなばみち、東面に 宝暦四(1754)五月吉日造之 と刻まれている。
 高さ85㎝ 巾17cm~18cm
 この道標のかたわらに、一本の根上りの大きな松があったが、マツクイムシの被害をうけて枯れる。
 むかし、津山から、勝北、奈義の村むらをとおり、黒尾峠を越えて鳥取に行く道は「因幡街道」と呼ばれ、このあたりは、街道を往来する人びとの憩いの場所でもあった。 

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鶴山 慰霊碑(美作忠魂碑)

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美作忠魂碑
 美作五郡の各寺院が、よくまとまったのは地理的にも北条県の伝統があるが、実はすでに明治末年に協力の実績を築いていた。というのは津山町所在の仏教各宗協議所なるものが、本源寺に設けられていた。明治三十八年の十一月、ここで日露戦争の戦死者のため記念碑を建てようという相談ができた。当時苫田郡長をしていた小沢泰にこれをもちかけたところ、町長をしていた矢吹金一郎に相談してやれということになり、矢吹と仏教各宗代表が基礎案をつくった。これが鶴山公園にできた美作忠魂碑の出発であった。結局津山だけのものでなく、美作一円のものにしょうと、神職や有志に呼びかけ募金に着手したのである。費用三千円計画で募金運動をはじめたが難航したようだ。しかし努力が実り、四千三百余円を集めたものの、予定より費用も高くつくので、継続して募金をしつつ、第一回招魂祭を、四十年の四月二十一日にしている。この日が後年毎春の招魂祭の日となった。

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