第3回 令和作州城東むかし町
2024年5月26日「第3回 令和作州城東むかし町」が国の重要伝統的建造物群保存地区の城東地区一帯(旧出雲街道の橋本町~東新町)で行われました。今年はお天気も良くて汗ばむ陽気の中、学生ボランティアさんが和装でスタンプラリーのチェックポイント等で祭りを盛り上げておられました。そんな和服姿と街並みを見て、時代がタイムスリップしてその昔にもこんな風景があったのだろうとロマンを感じました。
2024年5月26日「第3回 令和作州城東むかし町」が国の重要伝統的建造物群保存地区の城東地区一帯(旧出雲街道の橋本町~東新町)で行われました。今年はお天気も良くて汗ばむ陽気の中、学生ボランティアさんが和装でスタンプラリーのチェックポイント等で祭りを盛り上げておられました。そんな和服姿と街並みを見て、時代がタイムスリップしてその昔にもこんな風景があったのだろうとロマンを感じました。
10月30日(月)親睦移動委員会 秋の津山城散策
親睦委員 10 名が参加し、「津山観光ボランティアガイドの会」会長 得能良平氏の案内の元に、曇ひとつない秋晴れの津山城址を散策しました。得能氏の心のこもった熱いお話は、壮大な石垣の上にそびえ立つ津山城を想像させてくれ、改めて津山って凄い、もっと知りたいと思った一日でした。(文:津山商工会議所女性会)
「備中櫓」名前の由来
初代藩主・森忠政は、鳥取藩主・池田備中守長幸(ながよし)に娘・於松を嫁がせました。その娘婿である長幸が津山城を訪れるのを機に建てられたのが備中櫓である。備中守から名付けられました。地名とは関係ありません。備中櫓は人物にちなんで命名された珍しい櫓なのです。発掘調査中、備中櫓の周辺で「揚羽蝶」文様の小さな瓦が出土しています。池田家と館駅のある瓦のようです。忠政は娘婿にちなんだ櫓を建てるにあたって、棟に池田家の由来の「揚羽蝶」文様の瓦を作って使用したようです。(文:現地案内より)(2023年10月30日撮影)(2012年・2017年取材)
出雲街道 宿場名の語源由来を四日市観光ボランティアガイドの村田三郎様から頂きましたのでご紹介させていただきます。(上の写真は津山ボランティアガイドの末澤敏夫さんと所有の出雲街道絵地図)
出雲街道 宿場名の語源由来 2023.02.12 村田三郎
1.序
出雲街道は、播磨国姫路(兵庫県姫路市)を始点として、中国山地を横断し、出雲国松江(島根県松江市)に至る街道のことを指す。古代は都(大和)と出雲とを結ぶ最短距離の官道で、国司が中央とを往復する道であった。江戸時代は、参勤交代の道として、津山、勝山、広瀬、松江などの各藩主が利用し、出雲(松江)の藩主・松平侯(越前松平家)が参勤交代で通ったことから「出雲街道」と呼ばれるようになった。姫路から松江までは、53里208km、25か所の宿場があった。出雲街道の特徴というべきは、出雲大社(祭神大国主大神)・美保神社(祭神事代主神、三穂津姫命)を祀る「参詣・信仰の道」であり、また、たたら製鉄製品の全国流通を支えた「鉄の道」でもあった。
2022年10月23日「出雲街道を歩こう会」に参加してきました。
今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第6弾(最終回)として、福力神社附近より津山(津山市役所)までを、東から西へと主催者の「勝間田宿の会」と共催で、「城東まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、記念すべき第6弾の最終回を迎える事が出来ました。
特別企画(第6弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第4区)
福力(福力荒神社附近)~津山(市役所)間7.5km(実質8.0km)
主催:出雲街道 勝間田宿の会、共催:城東まちづくり協議会(津山市)、共催:出雲街道勝山宿の会
協力:津山観光ボランティアガイドの会、助成:(一社)中国建設弘済会
津山宿(城下町)
古代より出雲と大和朝廷を結ぶ道は、重要な路線として開けていましたが、街道としての整備が整ったので、和銅6年(713)吉備より分離され、美作の国として独立し、以来 津山は国府を有し、美作の中心地として栄えてきました。
街道は多少の変遷を重ねてはおりますが、播磨より県内に入るには、杉坂峠を通る道が古道でした。この道に変化が起こるのは、慶長8年(1603)森忠政が藩主となり、入国以来であり、江戸幕府の命で始まった参勤交代のため、街道の整備に当たらせたもので、当所は出雲往来、出雲往還と呼ばれ、近代になり全国的に街道と、呼び名が統一されて出雲街道と呼ばれるようになった。
慶長8年2月美作の国18万6500石の所領を授かった、森忠政は3月に院庄の構城跡に館を築き、城の選定を急ぎ、最終地として「鶴山」と決め、吉井川と宮川を見下ろす鶴山を城地と定め、土地名称を「津山」と改めた。秋には徳守神社を総鎮守として造営した。
元禄10年(1697)四代藩主長成病死のあと、五代藩主として江戸へ発った関式部衆利が発病し、8月森家は改易となった。
元禄11年正月、松平備前守長矩は美作国津山城を受領し、10万石の領主となり以後危機もあり、所領も5万石になったりしたが、その後は増加に転じ明治の維新を迎える。津山は今も昔も作州の中心である。(「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1からのつづき)
2022年5月15日、「目指せ!衆楽園をモネの池に大作戦 ~今こそ起こそうムーブメント~」と題して一般社団法人津山青年会議所が市民や行政と共に衆楽園の池の浄化作業を行いました。
この衆楽園は津山藩2代藩主・森長継が京都から作庭師を招いて造営された廻遊式庭園で、京都御苑内にある仙洞御所を模して造られた由緒ある庭園です。平成14年9月には「旧津山藩別邸庭園(衆楽園)」として国の名勝に指定されています。大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目ですが、なんと出来たのは衆楽園の方が先だそうです。
この庭園ですが、昨今、枯れた睡蓮が重なり、汚泥となり水質汚染となっていて異臭も放つようになっていました。昔は睡蓮はなかったそうですが今は異常事態です。そこで、この池をモネの池にしようと立ち上がったのが、市民、行政、一般社団法人津山青年会議所です。睡蓮を除去して、バクチャーを使い水質浄化を行い、良くない循環から良い循環を作れば、微生物が活性化され水質が安定して、継続的に睡蓮の異常繁殖もなくなり、環境が安定するそうです。
全ての睡蓮を除去できなかったのですが、端から端まで除去する事で、水の流れが回復できるようになったそうです。今後も衆楽園が多くの皆さんに愛され、誇りであり続けることを願ってやみません。
2022年4月2日満開の津山さくらまつりの様子です。(3月27日の様子)
この日は晴天の空の下で身動きできないほどの大勢のお客様にびっくりでした。
皆さん、久しぶりのビッグイベントに顔もほころび、家族や友人と思い思いのポーズで盛んに満開のさくらをバックに写真を撮っておられました。今年はお弁当は持ち込めましたので、満開の桜の下でお弁当を広げて楽しんでおられました。また、ご当地グルメが楽しめる屋台も出店されていて長い行列が出来ていました。
2021年11月13日から11月21日まで「津山もみじまつり」が開かれています。
13日の午前中はオープニングセレモニーが行われ、テープカットや地元の保存会による踊りが披露されました。少し遅れてお昼時に行ってきましたが、すでに大勢のお客様が津山ホルモンうどんや和牛を使った料理などの食べ物を求めて列をなしていました。いいなと思ったことは、休憩スペースでゆっくりとお食事ができます。また、夜にはもみじや石垣がライトアップされています。
2021年10月18日、イナバ化粧品店に伺ってきました。
イナバ化粧品店に、ご近所の仲良しさんが入って来られると自然に和気あいあいと世間話に花が咲きます。ママの長年のお付き合いしているこの方はもうすぐ99歳というハツラツとした素敵な方です。背筋は真っすぐと伸び姿勢が良く、足元も軽くステップを踏み、ジョークもポンポン飛んでくる。秘訣を聞けば、ブラジャーもして背筋を伸ばし、いつもおしゃべりをして、ボランティアで日本舞踊を現役で踊っていらっしゃるというスーパーウーマン。ママとこんな99歳になりたいと切に願いました。
2021年5月9日(日)10時~12時まで、アルネ津山交差点、城見橋付近で「みんなでゴミ拾い&お花を植える活動」が吉井川河川敷にて開催されました。これは、森万里子さん提案で、530(ゴミゼロ)運動の皆さんが実行されたそうです。
この活動は、2013年に行われた「津山偉人ハイカラ祭り」で来津者に気持ちよく町を見てもらおうとアルネ東広場を清掃した時がきっかけだそうです。万里子さんは津山市出身で市に磯野計記念奨学金を設けている、明治屋創業者の磯野計氏の顕彰が目的で、津山偉人ハイカラ祭り実行委員会(世話人・森万里子さん)の有志と共に、今津屋橋北詰~アイふきやの道路両側にある枝垂れ桜並木の根元付近の雑草取り、また、キリンビール岡山工場創立40周年を記念して、水源地となる奥津湖の花いっぱい運動に取り組む鏡野町林業研究グループ連絡協議会に桜の苗木20本を寄贈、植樹などいろいろな活動をしてきたそうです。