「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.1
特別企画(第5弾)出雲街道(Ⅱ)を歩こう会(第5区)
久米(ふれあい学習館)~津山(市役所)間7.0km(実質8.0km)
令和4年(2022)5月15日(日)実施
今回の「つながる出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会は、特別企画 第5弾として久米(ふれあい学習館)より津山(津山市役所)までを、逆に西から東へと主催「勝間田宿の会」と共催で、「城西まちづくりの会」と「勝山宿の会」で歩きます。
「勝山宿の会」では平成24年より、真庭市内の「出雲街道(7回)・大山みちを歩こう会(6回)」を踏破して、国交省より「夢街道ルネッサンス」に認定され「つながる出雲街道」と命名され、東部(美作市・勝央町・津山市)に活動の場を求めて、歩こう会を開催し、次回10月23日は第6弾(最終回)となります。
津山市役所東駐車場に集合 お世話役の勝間田宿の会会長 赤堀浩一さん
久米の道の駅近くでバスを下車して久米ふれあい学習館へ向かう。
八幡神社(宮尾)
久米ふれあい学習館をスタートして、500m程行くと八幡神社参道御旅所に至ります。この付近には一里塚(石柱)があり、2里と記してあったと伝わっているが現在は無くなっている。
北へ500mで神社に到着、付近には七世紀に創建されたと伝わる久米廃寺跡がある。
念仏供養塚(茂みの奥)
200m程で、出雲街道(宮尾)の道しるべと地神があり、大乗妙典供養塔(文政10年(1827)11月吉日 願主 越中砺波郡今石動 良造 脇願主 当国源兵衛 世話人当村 中領家 井上)と刻んである。
中須賀コミュニテーハウスにて少し早い昼食をとる。
中須賀
当地は水陸交通の要衝として栄え、陸路は元より高瀬舟の船着場として、年貢米や薪等を運んだり、海産物を受け入れて賑わった。
中須賀の町並みには、白壁 瓦葺き 土蔵等に僅かながら、当時の面影が忍ばれる。集落の西に「中須賀コミュニティーハウス」が有り、敷地内に地蔵堂がある。
地蔵堂・船着場・常夜燈
船着場跡の堤防上には、常夜燈の大燈籠が3基あり、地蔵堂が祀ってある。
案内標識
吉井川を渡って少し行けば、道しるべと常夜燈があり、これは作楽神社への道を教えたものである。左手の方向に吉田神社がある。
吉田神社
道しるべを左に取れば、神社の鳥居が見える。院庄と神戸の境に位置する、承久3年(1221)後鳥羽上皇が隠岐配流の途中、同行の後宮が病となったので、当地に溜まり祈壽を行った跡と伝わる。寛文4年(1665)森藩二代藩主長継が、現在地へ移転したと言われている。
構城跡・貞孝母子石像
「構の城」は院庄にあり、一町四方が城域となっている。当初は院庄城と称していたが、築城の時期は不明である。戦国時代の山城とは違い、平城として中世の館の様子を持っていたと考えられる。
八幡神社(院庄)
築地の地名にあり、武人の信仰を集めたと言われ、構城と関係があったと言われている。鳥居には文政5年(1822)の文字が見える。(この近くに森忠政が住んでいた大庄屋の島田家がある。)
六十六部供養塔(院庄)
供養塔には当村願主延札保二郎、脇願主信州佐久郡藤吉郎、天保十亥年十一月吉日と刻まれている。また、供養塔の脇には、ぼたんで有名な寺院・清眼寺(本堂は享保十九年(1734)の建築)の案内がある。
にらみあいの松・小公園
街道沿いに「にらみあいの松」と言われる小公園があり、慶長の物語を今に伝えている。
森忠政藩主人部の頃、家臣の井戸宇右衛門、名護屋九右衛門は平常より仲悪で、反目を続けていた、九右衛門は忠政より宇右衛門の、射手を命じられたが、逆に宇右衛門に斬られ、宇右衛門も数人の射手に、弟の伝三郎、惣十郎と共に討たれる、事件のあった地に、両家の墓を作り、松を植えたところ、後世になり「にらみあいの松」と呼ばれるようになった。
小学校跡の石碑がある。
川を渡る。
首なし地蔵・伯耆街道(分岐)
分岐に入ると首なし地蔵堂がある。享保11年(1726)3月山中一揆の首謀者として、処刑された5名を哀れんで、新田村(津山市新田)の村民が建立した。
高野神社へ登る位置に道しるべがある。
伯耆街道(分岐)
市道と旧国道との分岐点に、近年設置の道しるべがある。
高野神社・宇那堤の森(二宮)
道しるべから坂道を登れば、高野神社の境内に入る。高野神社は、美作二宮といわれ延喜式内社で「今昔物語」にも名がみえ由緒ある神社であり、随身門は14世紀の建造である。狛犬を始め文化財も数多く、万葉歌人平賀元春の歌碑もある。
宮司から説明を聞く。 高野神社「歴史資料館内」
なお参道の左手を上がって行くと、大庄屋・立石家の古民家がある。境内を下って参道を通れば、樹齢七百年の椋の大木があり、森家の家臣長尾勝明の建立した「宇那堤森」の石碑がある。森を抜けると高野神社の大鳥居がある。
「出雲街道(Ⅱ)を歩こう会」第5区 No.2へ続く