杉坂峠関所跡(佐用町)

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佐用町指定文化財 杉坂峠関所跡、種別:史跡、指定年月日:昭和58年5月20日、所有者:佐用町
 大宝令によって整備された美作道は、山陽道の太市から美作国府に向かって西北に伸び、杉坂峠を越えて美作に入った。
 播備作の広大な地域を制した赤松一統の中で、赤松則村が元弘3年(1333)に関を設けたところである。
 慶長年間に万能峠が開通したので、杉坂峠の通行人は少なくなったが、判明している郡内唯一の関所跡である。(文:現地看板より)(2022年1月12日撮影)
(つながる「出雲街道(Ⅱ)」を歩こう会 万能乢コース)

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今回の案内役の橋本惣司さんの説明を聞く皆さんです。

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道標です。

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史跡巡りの日は雪が降って寒い日になりました。

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太平記 備後三郎高徳が事
 その項、備前国に、児島備後三郎高徳といふものあり。主上笠置に御座ありし時、御方に参じて義兵を掲げしが、事いまだ成らざる先に笠置も落され、楠も自害したりと聞えしかば『中畧』
 備前と播磨との境なる船坂山の巓(いただき)に隠れ臥し、今や今やとぞ待ちたりける。臨幸あまりに遅かりければ、人を走らしてこれを見するに、警固の武士、山陽道を経ず、播磨の今宿より山陰道にかかり遷幸(せんこう)を成したてまつりけるあいだ、高徳が支度相違してけり。
『さらば美作杉坂こそ、究竟(くっきょう)の深山なれ、ここにて待ちたてまつらん』とて三石山よりすぢかひに、道もなき山の雲を凌(しの)ぎて、杉坂へ着きたりければ、主上はや院の庄へ入らせたましぬと申しけるあひだ、力無くこれより散り散りに成りけるが、せめてもこの所在を上聞(じょうぶん)に達せばやと思ひけるあひだ、微服潜行(びふくせんこう)して時分をうかがひけれど、しかるべき隙(すき)も無かりければ、君の御座あり御宿の庭の大きなる桜木有りけるを押し削りて、大文字に一句の詩をぞ書き付けたりける。
天莫空匂践。 時非無范蠡
○赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜ふ事
 その項、播磨国の住人、村上天皇第七の御子、具平親王六代の苗裔(びょうえい)、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて、弓矢取って無双の勇士有り。『中畧』
この二,三年大塔宮につきまとひたてまつりて、吉野十津川の艱難(かんなん)を経ける、円心が子律師則裕、令旨をささげて来たれり。披覧(ひらん)するに『不日義兵を掲げて軍勢を率し、朝敵を誅罰(ちゅうばつ)せしむべし』円心ななめならず悦んで、先づ当国作用庄苔縄の山に城を構えて『中畧』やがて杉坂、山里二箇所に関をすゑ、山陽、山陰の両道をさしふさぐ。これより両国の道止まって、国々の勢上洛する事をえざりけり。昭和六十三年十月 作用町観光協会

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太平記の看板の前で説明する橋本惣司さんです。

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雪ではっきりとは見えませんが奥が旧道です。

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旧道を杉坂峠関所跡へ向かいます。

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橋本惣司さんより説明を受けながら、先を急ぐ皆さんです。

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杉坂峠関所跡へと向かう坂道が結構きついです。

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雪が降って寒い日です。

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 この地は、播磨(兵庫県)と美作(岡山県)の国境で、古代から16世紀頃まで京都~出雲間の重要な交通路をなし、鎌倉時代には往来の人を検問する関所が設けられて、赤松則村はここにとりでを築いたほど要衝の地でもありました。また、元弘3年(1333年)後醍醐天皇が隠岐に移された時には、それを知った備前の武士児島高徳が挙兵して、道中に天皇を奪還しようとした史跡でもあります。 環境庁・岡山県

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杉坂峠関所跡です。

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杉坂峠関所跡に立つ碑です。

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お地蔵様です。

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杉坂峠の記念碑です。

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後醍醐天皇「口漱ぎの泉」です。

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                        神宿郷です。

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笠懸の森由来 後醍醐天皇御歌。
よそにのみ思ひぞやりしおもひきや 民のかまどを かくて見むとは.
 元弘二年(1332)北条高時が、後醍醐天皇を隠岐島にお遷しするため、京都六波羅より五百余騎を率いて警護のために従った。
 出発後、十日で杉坂峠を越えて美作路へ、一行は田原、江見、南海を経て、楢原上、神宿から、ここ火の神に到着したのが三月十七日の夕方でした。この日は難所の多い行程であったため、天皇の疲労も大きく、その上梶並川が雪解けで水かさが増し流れが激しく、公卿や武士達五百人が徒歩で川を渡ることができなかった。そこで一応この地で休むことになり、その間に川を渡る準備をしながら天皇のご快復を待つことになった。
 この間、警護の武士達は「笠懸け」の武技を行い、天皇のお心を慰めたという。尚、当時からこの場所は椋の木が茂り、森のようになっていたらしく、以後ここを笠懸の森と呼ぶようになったという。ちなみに笠懸けとは、木に笠をかけて馬上の武士が駆けながら弓で笠を射る武技の一種で、鎌倉時代以後はもっぱら武士の遊技となった。また、最初の御歌は、天皇がこの地で休息されたとき、民家のかまどの煙が軒のつまより立ちのぼる様を近々とご覧になって、詠まれたものと伝えられている。(文:案内板より)