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取材記事内を検索ワード「武蔵」で検索した結果,29件の記事が見つかりました。

平尾家(武蔵の姉の嫁ぎ先の家)

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 ここは「元屋敷」と云う地名で町内で最も大きい茅葺きの家である。
 慶長5年(1600年)、武蔵が武者修行に出立した時、家の道具家の系図、十手(三つ)、すやりを姉おぎん夫婦に渡した。その後、元和9年(1623年)、おぎんの二男九郎兵衛景貞がここに居住し、武蔵家を相続した。
 庭の池水はその時作られた。辺には樹齢400年のタラヨウと樹齢300年のウツギの古木と屋敷の入口の樹齢300年の栗の巨木とがあり、さすがに武蔵にゆかりの深い平尾家らしい趣がある。
(文:美作市看板より)

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武蔵神社と宮本武蔵の墓(美作市)

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武蔵神社
 武蔵生誕地碑前から因幡街道を200㍍上った右側、字天王山にある。 郷土の生んだ剣聖「宮本武蔵」」を祀る神社として、昭和46年(1971)4月、武蔵奉賛会の趣意に賛同した全国1300余名の人たちからの浄財530万円をもって建立した。
 拝殿の正面上部の「武蔵神社」の額は、彫書芸術の創始者である彫無季謹作書のものである。また、社頭には、武蔵が好んだ唐の詩人白楽天の詩の一節「寒流帯月澄如鏡」を刻んだ「戦気の碑」が建てられている。

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【津山人】彫書家 彫無季

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 彫無季(本名河野省三・1904~1992)は明治37年岡山県苫田郡津山町三丁目(現津山市本町三丁目)に生まれました。大正9年(1920)岡山県立津山中学校を中途退学し、2年余り中国上海に遊学しました。同13年(1924)帰国ののち上京し、翌年東京蔵前工業専門学校に入学しましたが、2年後に中退しました。
 その後、叔父の経営する工場の仕事を手伝いながら、独学で中国の拓本などを学習しつつ、自らの書の工芸を模索しつづけました。そして、ついに書と彫刻が一体となった彫書という新しい芸術を創造しました。
 昭和29年(1954)初の「彫書」個展を開催、以後個展の開催や各種揮毫、著書の出版など縦横無尽に活躍しました。また、昭和41年(1966)には淳和会を発足させ、後進の指導にも努めました。平成4年東京で没。享年87(文:平成18年3月18日津山市教育委員会「彫無季の芸術」より)(写真:津山郷土博物館特別展図録『彫無季の芸術』より転載)

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役の行者供養石(金井)

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役の行者供養石(えんのぎょうしゃくようとう)安永3年(1774)
 道仙寺【東粟倉村・現在美作市後山】霊山後山を管理する真言宗の寺、後山では、行基・空海・宮本武蔵が修行したと伝えられています。
 その道仙寺の行者が行き倒れになって、ここに供養石を建て、金井の地区の人が年に一度参られています。(大崎公民館前)

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県立明石公園と明石城

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 明石公園とは、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。
城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。
園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。
平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。(文:明石公園HPより)(2017年11月26日撮影)

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お里んの碑(故郷を愛した人情作家 棟田 博)

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 故郷を愛した人情作家 棟田 博(明治41~昭和63)が、故郷を題材にした作品『ハンザキ大明神』、『美作ノ国吉井川』、『宮本武蔵』、『そして、御犬小屋が残った』などがあり、多くがドラマ化された。なかでも吉井川を往来していた高瀬舟をテーマにした『美作ノ国吉井川』の女主人公・お里んの碑が津山市民の手で愛染寺に建てられた。昭和47年には津山市文化賞を受賞している。

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武徳殿跡(現中山神社駐車場)

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「武徳殿跡」日露戦役の後、武徳の称揚民間に及び、武徳会津山支所のもとに各所に剣道場が設立されたが、西北部に新進の勢力を助長させるため、大正11年中山神社武徳殿の建設をみ、津山警察署の指導を得て一大進展をみるに至った。かくて勇士雲のようにでて小学校もまたこれに習い、地方の青年有志間においても諸武徳大会に、さらには昭和2年3月大日本武徳会岡山県大会(青年団体の部)優勝という輝かしい成果をおさめた。
昭和18年高田・田邑両村と連合して4ヶ村組合立青年学校を、昭和23年4月組合立津山高等学校中山分校、昭和29年7月に津山市に編入されるにおよび津山東高等学校となり、その後津山市沼の本校に併合され、今は中山神社の駐車場となっている。 (美作一宮の遺産を見つける会発行:美作一宮 郷土の遺産より抜粋)

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吉川英治『宮本武蔵』掲載開始80周年記念「武蔵×武蔵」

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2015年10月10日~11月1日まで勝央美術文学館に於いて、吉川英治『宮本武蔵』掲載開始80周年記念が、~吉川英治と木村毅 二人の剣豪~「武蔵×武蔵」と題して開催されました。


『鵜図』 一点一画の加減も許さない完璧な名画である。画評に用いられる逸品とは、このような絵画を指すのであろう。
 巌頭に佇立している鵜の姿勢はまことに自然、風貌はまったく凝るところがない。鵜は人にとらえられて、人のために魚を取ることを余儀なくされる。鵜は魚を取ってとらず、人は魚を取らずして掴む。奸智のうしろめたさを人は鵜に見る。しかし、鵜はただ本能のままに魚影を探るにすぎない。ひたすら無心の鵜と、分別する有心の人間とのドラマ、この絵にはつきぬ興味がある。

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別格本山 大聖寺(あじさい寺)(美作市大聖寺)

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本坊「勅使の間」

現在の本堂不動院、本坊客殿などは、津山城主、森忠政公(森蘭丸の弟)により慶長9年(1604年)に城主祈願所として再建されました。

「雁の間」は、小説「宮本武蔵」執筆にあたり吉川英治氏が、昭和5年から翌年にかけ逗留をくりかえした客殿庫裏にあります。(大聖寺の詳しい取材はこちらから)

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津山の私設美術館・その他のおススメ(お寺・博物館・資料館)

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美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)

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