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取材記事内を検索ワード「観音堂」で検索した結果,58件の記事が見つかりました。

済露山 高蔵寺(佐用町)

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済露山 高蔵寺(真言宗御室派)の由来
 聖武天皇の御代、神亀三年二月、今から約千二百年前に僧行基が創建したものといわれ、観音堂(開山堂ともいう)の本尊は千手観音である。
 後醍醐天皇は隠岐配流の時、当寺に立ち寄り、建武中興後千手堂を修補したと云う。
 森家の建てた御霊屋(おたまや)には藩祖森長俊の座像を中心に、左右には可児弥五左衛門(かにやござえもん)と河合斉宮(かわいいつき)という初代両家老木像が祀ってある。なお、現在の本堂ともいうべき大師堂には、弘法大師を祀り、高蔵寺中興の祖ともいうべき仁可上人の木像が横に安置してある。(文:『森一族秘話』より転載)

神亀2(725)年、播州佐用郡に虹光に耀き良い香り漂う山があるとの報せを受けた聖武天皇は、行基上人にその調査を命ぜられた。上人は、その山を巡り一心に祈り七日目に白髪の翁が現れ「汝が来るのを待っていた。我が像を刻んで祀らば人々に利益を与えん」と告げ千手観音にその姿を変えた。それから千日かけて彫り上げたのが本尊の千手観音と云われている。古くから朝廷や歴代領主に庇護され、後醍醐天皇は元弘の乱で隠岐に配流された際に立ち寄り、再起の戦勝祈願を行った。江戸時代には三日月藩主・森家の菩提寺となり、霊廟や三重塔が建てられるなど隆盛した。播磨西国三十三箇所10番札所。西日本播磨美作七福神のひとつ。(文:佐用町観光協会HPより転載)

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三日月藩租「森長俊の人となり」

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 三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。


 三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
 長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
 父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。

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八代観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第58番札所)

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 2022年11月4日、津山市八代にある、加茂郷88ヶ所霊場第58番札所の八代観音堂へお参りしてきました。ここも木元林造さんと小玉博司さんに案内頂きました。小玉さんもコロナ禍で3年ぶりに来てみると草や木が茂り様変わりしていて危うく入口を間違えそうだと言われていました。
 御本尊は珍しい白衣観音(びゃくえかんのん、びゃくいかんのん)で白い衣に頭から身を包む観音様です。(ウィキペディアによれば、古くからインドで崇拝されていたとされ、仏教に取り入れられてからは阿弥陀如来の明妃となり、観音菩薩の母とも仰がれて、その後、観音菩薩の主尊として信仰されるようになった。)そうです。

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小淵下観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第35番札所)

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 2022年10月20日、津山市加茂町小淵下(JR因美線軒戸踏切から小淵に入りすぐ山際を少し入ったところ)にある小渕下観音堂(加茂郷88カ所霊場第35番札所)を訪ねてきました。ここの観音堂は土木工事用コンクリートマスの中にこじんまりとお祀りされています。ご本尊は十一面観音です。(先達:木元林造さん)(2022年10月20日撮影)

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河井観音堂(加茂郷88カ所霊場14番札所)

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 津山市加茂町河井の河井観音堂(加茂郷88カ所霊場14番札所)を訪ねてきました。民家より100m程入った山の中にあるのですが、木元さんに案内して頂かないと中々わかるところではありませんでした。ここは、観世音菩薩がお祀りされています。また、鶏の鎮魂碑もあるそうです。
(先達:木元林造さん)(2022年10月4日撮影)

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和泉山 金隆寺観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第74番札所)

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和泉山金龍寺由緒(加茂町百々)
 人皇五十一代平城天皇御宇大同二年(807)丁亥ノ秋八月、大和国延鎭上人ノ開基ナリ。
此ノ山、泉涌故トテ泉山ト云フ。後、和泉山金龍寺ト云フ。
 数年ヲ経テ大寺タリシガ、七十三代堀川院御宇承應元年(1652)五月、淋雨降リ続キ山崩本堂土中二埋レ百二十余年間葏閉タル野山トナル。
 八十四代順徳院御宇宝永元年(1704)七月十八日、尊像現出シ玉ヒ再興在リテ紀洲高野山理姓院末流タリシガ、宝暦八年(1758)戌寅四月祝禍ニテ消失ス。
 明和二年(1765)酉年三月再建。再建後高野山理姓院ノ旧縁ニテ行重村真福寺末寺トナル。
昭和63年3月 百々部落 加茂町観光協会(文:現地案内板より)(2022年11月9日撮影)

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2023千光寺のしだれ桜

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 前日侍ジャパンが優勝して世界一になり、日本中がまだ興奮冷めやらぬ2023年3月23日の千光寺のしだれ桜の様子です。(2009年3月28日の様子
 雨の降る中でしたが、雨に打たれ境内の中に佇むしだれ桜の姿もまたいいかも?と思いながら撮ってきました。また、境内には様々な椿の花が美しく咲いていました。

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小中原観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第87番札所)

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 2022年9月15日小中原観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第87番札所)を地元にお住いの木元林造さんに案内して頂きました。この観音堂は、曹洞宗 成興寺の境内にあり、旧道沿いにあります。すぐ近くには、大庄屋の中西邸跡や、万燈山古墳文殊堂(加茂郷88ヶ所霊場第1番札所)があります。
また、三角屋根の百々温泉 めぐみ荘があり、おススメです。

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霊雲山 蓮華寺 弘法寺(美咲町)

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 当山は、天長年間(824~)に、弘法大師御開創の霊域と伝えられたお寺です。
 万治3年(1660)、当山中興快英上人の手によって再建され、仏師を乞い本尊を建立しました。胎内には、大師御製作の塑仏頭面を納めています。
 地元の丹波六郎兵衛を願主として再興され、その折、木像の弘法大師像を金剛寺(現愛染寺)より寄進されました。以後延享年間(1744~)に、宥善上人により当山は中興されました。
 近年、本堂・客殿・庫裏を再建し、現在に至っています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月2日撮影)

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秘史後南朝の里・高根を歩く「如意輪観音寺跡」

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秘史 後南朝の仙洞御所の地、高根について「如意輪観音寺跡」貞和3年の石造(宝塔)
 酒本武都主氏の親切な道案内により、その幻を求めて歩きました。翌日の令和3年6月4日地区に古い物が多くあることを知ったことにより、せめて石造物の文字だけでも正しく読んでみようと、独り調査に入った。この日私的には大変なものを確認できた。
 地元では先人達が、「高仁山長福寺境内 如意輪観音寺跡」と言われる場所には宝塔(仮)があり、それには(判読)「貞和三丁亥天〇〇(1347) 願主 万門」と彫られていることに気づいた。
 これは町内で重要文化財指定されている
  間 山  四角宝塔康永3年(1344)
  一本松  如意経塔延文6年(1361)
  東光寺  油地蔵 康暦2年(1380)県指定
 この中では二番目のものである。手水鉢には昔は髙仁であったとも奉納者が示していた。
 かつて秘史を語ってきた人達は以上のことを知っていたのでしょうか。詳しくは後日の調査を待つことにして地元区長へ中間報告することとした。参考文献:『博士 川勝政太郎著 石造美術入門・同 石造美術の旅』より(文:勝央町文化財保護委員会 委員長 赤木耕三)

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