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取材記事内を検索ワード「桜」で検索した結果,377件の記事が見つかりました。

八塔寺川ダム

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 堤の長さ226mの八塔寺川ダムは水と緑のやすらぎゾーンです。サイクリングロードで続く、ダム湖上流には、赤い吊り橋が架かり、春は桜、秋は紅葉の名所ともいえる、渓谷レクリエーション広場。町北部の八塔寺ふるさと村と並ぶアウトドアエリアとして脚光をあびています。(文:『備前市HP』より)

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八塔寺川ダム公園(吉井川中流県立自然公園)

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 津山市から備前市の閑谷学校に行く途中に八塔寺ダム(備前市吉永町高田)がありますが、その周辺が八塔寺川ダム公園となっております。昨年、友人が行って綺麗だったと聞いていたので今年は訪ねてみました。昨年は11月の20日が丁度紅葉真っ盛りだと聞いていたのですが、今年は終わりがけでした。それでも十分に綺麗でしたよ。吉井川に沿って細い道を入ると植えてあるモミジのトンネルがとても綺麗です。車から降りて川沿いを散歩すると気分転換にもってこいです。(2017年11月19日撮影)

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杉宮の八幡様(津山市杉宮)

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 ここは、旧勝北町の下村地区です。西加茂神社をすこし北に行ったところにあります。ご近所の土井さんにお聞きすると「旧勝加茂村の時は下村の八幡様と呼んでいました。詳しい事は解りませんが下村の人達で現在までお祀りしてきました。」と教えてくださいました。(2012年12月14日撮影)

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『太平記』の物語からできた作楽神社と児島高徳

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「太平記」と児島高徳  児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
 児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
 これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
 明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
 学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
 近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。

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2017年 さら山時代まつり

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 2017年11月12日津山市さら山地区一帯で「第20回 歩いてみんちゃい さら山 さら山時代祭」がありました。毎年行われる時代祭は雨で泣かされることもしばしばでしたが、何とか天気ももって午後には日差しもあり、ウォーキングするには好都合でした。カキ谷古墳~洗顔清水の約3.5kmですが、歩いているのは年配者が多かったようです。周囲の景色を愛でながらウォーキングをすると健康的かつロマンを感じまう。また、お腹いっぱいで良い事ずくめでした。さら山地区の皆様お世話になりました。
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保田扶佐子画集Ⅱ 刊行記念パーティー

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 2017年9月29日山下の津山国際ホテルで抽象画家で版画家の保田扶佐子さんの作品集Ⅱの刊行記念パーティー(保田扶佐子美術館主催)が開かれました。作品集Ⅱは、30年近く居住し、制作活動を行っているスペイン・バルセロナ市と津山市を往復しながら描いた保田扶佐子さんの絵画、版画の作品集の第Ⅱ集です。記念パーティーでは、ウエルカム ミュージック(現代音楽)が演奏された後、来賓の戸室敦夫さんの祝辞や美味しい食事を頂きながらの歓談、そしてアトラクションでは大いに笑った楽しい記念パーティーとなりました。

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阿黒谷(上之町)

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上之町(五丁目)と阿黒谷
 森藩時代から四丁目に続いて千光寺・蓮光寺などが、丹後山南麓に続く。
千光寺ゆかりの養護施設二葉園の前の道を山に向かえば、阿黒谷にかかり、丹後山への登山道となる。阿黒谷は、戦国時代、このあたりにいた土豪阿黒氏がいたところと伝えられている。武家町もこのあたりになると閑散としてくる。千光寺のしだれ桜は見事である。(文:城東観光 看板より)(2017年10月7日撮影)

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鬼子母神(きしもじん)西寺町

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 津山中学校(現津山高校)の校舎が建設されるとき、いま校庭になっている一部に裏地があり、そこにあった石像の鬼子母神が妙法寺に移された。鬼子母神は日蓮宗の仏神で、人の子を食う鬼女が、釈迦の説法で前非を悔い改め、菩薩になったというインドの詞梨帝菩薩を日本に移し、鬼子母神(きしもじん)というようになった。
所在:津山市西寺町妙法寺内 祭神:力リテイボサツ 創建:不詳
(文:『津山城下町まちなかお社巡りマップ』 津山まちづくり本舗)(撮影:2017年4月23日)

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笠場山福聚院 普門寺

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笠場山福聚院 普門寺 縁起
 木版略縁起によれば、「作州真嶋郡笠場山普門寺は往昔弘仁七年(816)吾弘法大師始めてこの山にあそび精修勤念したまう時に、祥瑞嶺上にあつまり閃光渓道に映ずるを観て、師深く求法の勝地なる事をさとり、ついに即ち本尊聖観音、不動、毘沙門の三尊並びに仁王の像を彫刻し、伽藍僧舎を草創して秘密瑜伽の道場をおこしたまう。しかるに、去る乱世の頃、仏閣ことごとく兵火に炎焼するといえども、彼の尊は泥中に入りて焼失したまう事なし。まことに上求菩提下化衆生の尊像なり。」とある。
 当時、普門寺周辺には、松本坊、一乗坊、中坊、新蔵坊の他数十戸の民家があり、耕地が開けていた。当山鎮守として、熊野三所権現を歓請し、北に大山を遙拝して信徒諸地より雲集していた。なお、本堂は寿永二年(1183)春、享保八年(1723)に再建され、辻氏安兵衛秀勝氏によって再建された記録もあり、現在の建物は、明治二十八年(1895)秋に再建されたものである。
常内に安置されている龍の彫刻(干ばつ時雨乞いの祈祷に用いた)は元禄二年(1689)当時の欄間である。(文:石碑より)(2017年5月14日取材)

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東賀茂神社隣の安井大師堂

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 勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)

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