第27回 津山加茂郷フルマラソン全国大会
2019年4月21日に開かれた「第27回津山加茂郷フルマラソン全国大会」が開催されました。
夏の様な日になり、ランナーも汗びっしりで走っておられました。また、沿道では大勢の方たちが応援にかけつけてランナーに手を振っていました。ランナーの中にはいろいろと工夫を凝らして仮装をしていらっしゃる方も大勢いて楽しませてくださいましたが、この炎天下暑かっただろうな~と思いました。全国からお出での皆様、大会関係者の皆様お疲れ様でした。
2019年4月21日に開かれた「第27回津山加茂郷フルマラソン全国大会」が開催されました。
夏の様な日になり、ランナーも汗びっしりで走っておられました。また、沿道では大勢の方たちが応援にかけつけてランナーに手を振っていました。ランナーの中にはいろいろと工夫を凝らして仮装をしていらっしゃる方も大勢いて楽しませてくださいましたが、この炎天下暑かっただろうな~と思いました。全国からお出での皆様、大会関係者の皆様お疲れ様でした。
小田中西松原の街道筋に「松尾芭蕉の句碑」が建立されています。
貞享2年(1685年)に詠まれた句で「雲折々ひとを休める月みかな」出典は『あつめ句』(自選句集)。
後の広場は、徳守神社の「西松原御旅所」です。( 撮影:2019年3月19日)
勝北町が文化財に指定し長く保存している天然記念物部門の中に同町大吉の真言宗・五穀寺の紅梅(平成二年五月二十八日指定)があります。
この紅梅は、寺の山門を入った左側にあり、根元の周囲は二・六m、地上一mのところで二つの枝に分かれ、南の枝が一・三m、北の枝が一・六m、高さは五mあり、樹齢は三百年(元禄時代、一六九〇年ごろ)と推定される老樹。
寺の伝えによれば、今からおよそ二百二十年前の享保年間に、五穀寺は火災にあったといわれ、紅梅の樹齢からみて、この大火を凌いだ記念の木ともいえる。
2018年11月20日、2019年2月24日の2回にわたり、美作国二宮の高野神社本殿(県重要文化財)の屋根銅板の葺き替え作業を見学させて頂きました。88年ぶりの修復工事とあって銅板は11,000枚が使われるそうです。また、銅板の一部には寄付者の名前が入っているそうです。
高野神社本殿(県指定) 津山市二宮にある高野神社は、美作国二宮として広く知られています。その本殿は、入母屋造・妻入を特徴とする中山造と呼ばれる様式の大型本殿で、寛文3年(1663)に、森藩2代藩主長継が再建しました。付属の釣殿も同時期の建築で、修理の手が入っているものの、近代初期の社殿が残されています。(上記写真は2019年2月24日撮影)
2019年3月7日のイナバ化粧品店の店内の様子です。
今日のお客様は背の高い男性の方が多く、パワーをあげようとママも背伸びしながらハグしておられました。また、写真を撮るときは「みんな背が高いなぁ~、私が埋もれてしまいそう、これからは写真を撮るときは台がいるわぁ~。」と、外は寒いけれど店内はあったかで賑やかなイナバ化粧品店内でした。
腹痛の神として信仰 病の武将助け祀る
勝北町羽賀の公会堂横に「梅の木神社」という小さなお社がある。この神社いわれは口伝えで定かではないが、遠く戦国時代、群雄が割拠しその攻防の争いはこの近辺でも繰り広げられた。その頃のある日、戦いに敗れ手傷を負った一武将がこの地へ落ちのびてきたそうである。
それをこの土地の人が気の毒に思って懇ろに介抱したが、その甲斐もなく亡くなってしまった。人々は、哀んで手厚く葬り、小さなお社を建て一本の梅の木を植えて供養したと言う。
江戸期以前の楢村についての記録はないが「穴塚」と呼ばれている古墳や、十寸鏡神社のある通称「宮山」に六基の小さな円墳が残っている。
穴塚は、小足谷の北の尾根に南向きに造られた円墳で、盛り土の径18m、奥行約10mの横穴式石室を持つ。この古墳については次の記録がある。
「石室幅約六尺、高さ五尺、奥行三十五尺、巨石を以て覆われ、円丘高さ約廿尺、径九十尺、古来から火の雨塚と呼ばれている。」
金毘羅宮は香川県多度津郡琴平町に鎮座し、祭神は大物主神で、この神社は明治7年に現在の金毘羅宮となるまでは象頭山金毘羅大権現と称していた。一般庶民の信仰も深くほとんど全国的で、特に船に乗る人はこの神を厚く信仰している。
原の岩逧の金毘羅さまの石碑は二百余年前の作で、その盤座のもとに石工伊八の銘が彫り込まれている。松尾伊八は泉州の名工で多くの石碑を遺している。
金毘羅とは、梵語でクンピーラといって昔のインドの国で鰐を神格化した仏法の守護神として祀られ、江戸時代に入り航海の安全や猟師の祈願として信仰され、更に 水の神・農の神として広く信仰されるようになった。
西今町の西に連なる西寺町の更に西に接した町で、貞享年間(1684~1688)以前は茅屋町と書かれています。
寛永以降商いを営む者ようやくここに移住し茅町と称す。しかしながら市街に属するを得ず、寛文(1661)中、安岡町の人、渡邊藤左衛門義信の請願により、始めて市街に列し、地租を免ぜられる。貞享3年(1683)茅町に改む。(『津山市史』第3巻より)
もともと茅町は、城下の東西の一番端につくられた町といわれています。東の端にも萱屋町がありました。
若宮神社は神様のお子神であり、碑に「元禄13年再建」と刻まれています。境内末社には亥子神社があり「いのこ石」が祀られています。多賀神社は長命延命の神として知られています。東側に樹齢約400年の大木のケヤキがあります。吉井川改修以前の堤防に植え付けられていたといわれています。
神田のおこり
慶長9年(1604)に森忠政公が美作の太守として城下町を造る際に、各小川の流れを吉井川に集めました。当時は、紫竹川の支流が新田地区を流れていましたが、廃川となりそれが新田の開拓の源になったようです。