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津山扇形機関車庫(機関庫)とDE50-1に萌える

歴史のたび津山遺産、萌えよ因美線。

津山扇形機関車庫(機関庫)とDE50-1に萌える

津山扇形機関車庫トップ 津山鉄道ミニガイド 津山鉄道史 津山鉄道遺産1 津山鉄道遺産2  鉄道資産について  津山扇形機関車庫(機関庫)とDE50-1 (2007年取材)

はじめに断っておきますが、私(瓦版スタッフT)はこれまで全く鉄道に興味はありませんでした。ですので、決して、マニアによるマニアのための記事 ではありません。鉄道に興味のなかったTにここまでの記事を書かせるだけの魅力がここにはあります。皆さんも歴史・鉄道浪漫に浸ってみてください。

なお、機関車庫は時々行われる見学会の時以外は立ち入ることはできません。駅の方の迷惑になるので、決して勝手に入らないようにしてください。平成 20年5月3〜6日、9〜11日、24〜25日の「懐かしの鉄道展示室」でも見学できますので、興味のあるかたはぜひ申し込んでみてください。(詳しくはJR西日本のページへ

最新の情報は JR西日本岡山支社営業課(086-225-1179)までご確認下さい。

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旧津山扇形機関車庫 「津山鉄道遺産1」


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このページでは、津山で見ることができる鉄道関係の近代化遺産を紹介しましょう。
近代化遺産とは、幕末期から第2次世界大戦終了時にかけて、近代的手法によって建てられた産業・交通・土木等にかかわる建築物のことを言います。津山市に は城東むかし町屋、あけぼの旅館、作州民芸館をはじめとして58の近代化遺産があります。その中で鉄道に関係するものは19です。
これらは津山の町の発展とともに生まれ、発展を支えてきた歴史の証人であり文化遺産です。そして今では津山の景観に溶け込み、私たちの心に素敵な風景として定着しているものばかりです。
「いやー、津山って本当にいいところですね」・・・みなさんも津山の鉄道に乗って四季折々の素敵な風景を楽しんでみませんか。(参考文献:「岡山県の近代化遺産」岡山県文化財保護協会発行)

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旧津山扇形機関車庫とは

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旧津山扇形機関車庫
 旧津山扇形機関車庫は延床面積2,527㎡、総工費は11万600円であった。機関車収容線数17は、梅小路機関車庫に次ぐ現存二番目の規模である。躯体は鉄筋コンクリート・フラットスラブ構造で、向かって右の低棟には道具置場、技工長室、修繕室、鍛治場が置かれ、高棟は第1から第4、中棟には第5から第17の機関車収容線が敷かれていた。
屋根高は低棟6,700mm、高棟8,450mm、中棟7,303mmで、第5線と第6線、第11線と第12線の間にはエキスパンションジョントがある。ジョイント部分で中棟は高棟に、高棟は低棟に乗りかかるように設計
されている。エキスパンの役割は温度によるコンクリートの伸縮や地震による揺れの違いを吸収し、巨大コンクリート建造物を崩壊から防ぐことにあると考えられる。背面が広いガラス窓で覆っているのは、黒い蒸気機関車と煤煙によって暗くなりがちな庫内に自然光を取り入れるためである。それが扇形機関車庫の特徴である。
 旧津山扇形機関車庫60ft転車台転車台桁は横枕木仕様でクーパー荷重E33、全長18,280mmの60ft下路プレートガーダ「G2-1」である。転車台は扇形機関車庫が建設される6年前の1930年、電動牽引機と共に設置された。現在の二輪式転車台電動牽引機は1954(昭和29)年に福島製作所が製造したものである。

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京橋御門(山下)

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津山城への闖入者(ちんにゅうしゃ)
 城の警備は厳重を極め、不審者が入り込むことなどあり得ないというのが、一般的な城に対するイメージでしょう。確かに、城への出入りは簡単ではないですが、町人や農民からは全く隔絶した場所というわけではなく、さまざま人々が通行手形を得て、日常的に出入りしていました。そんな場所ですから、ときには不思議な事件も起きるのです。では、京橋門の番人の報告から、ちょっとした騒ぎのようすを見てみましょう。
 文化元年(1804)の8月17日、昼過ぎのことでした。京橋門の番人二人は不審な人物を目にして、声をかけました。その男は、単の着物を身につけ、尻をからげて鉢巻をしていました。そして、手には白木の箱を持っていました。ふだんだと京橋門は、城内の武家屋敷への用事で入る者も多く、厳しい監視はしていないのですが、このときばかりは少し気になったというのです。

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高瀬舟と舟着場の常夜燈(山下)

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高瀬舟とみなと町津山
 高瀬舟を使って吉井川を上下する輸送は、江戸時代になる前から行われていましたが、城下町津山の発展に、高瀬舟の活躍は欠かせないものでした。森忠政や家来たちは、木曽川の川みなと兼山の出身です。河川利用の豊かな知識や経験は、津山でも大いにいかされました。
 高瀬舟は底が浅くて平らで、あまり深くない川を行き来するのに適しています。馬1頭に積める荷が150㎏なのに比べ、高瀬舟は1そうで6トン「(長さ約15m・はば約2m)(米100俵)」も運ぶことができ、鉄道が敷かれるまで、吉井川や加茂川などは荷物や人を運ぶ大動脈でした。
 瀬戸内の塩や海産物、そのころはまだ珍しかったしょう油やみかん、瀬戸物の食器やたたみ表、明かりの燃料となる油も、高瀬舟で吉井川を遡ってはこばれました。また、米・大豆・小麦などの農作物とともに、なべ・かまなどの鉄製品が津山みなとから運び出されました。川みなとには、石灯ろうの常夜灯が設けられていました。今もこの常夜灯は、楢や船頭町、安岡町に残っています。(わたしたちの津山の歴史)(写真は昭和57年3月27日高瀬舟進水式の様子)

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素朴な可愛さ 全国土雛展(東蔵)

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城東むかし町家(旧梶村邸)は江戸後期から昭和初期にかけての城東地区を代表する屋敷として大切に保存されているお屋敷です。毎年、お雛まつりの季節になると行って見たいところの一つです。今年も全国土雛展があり行って来ました。3月2日(水)~4月3日(日)まであります。[9:00~16:30火曜日は休館日] また、江戸時代の商家跡、梶村邸広間に七段飾りのお雛さまが飾られています。是非、ご覧ください。おススメです。(撮影2016年3月4日)2016年のスケジュール

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大別当城跡(おおべっとうじょうせき)

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 大別当城跡は、大別当山の尾根伝いに残る中世の山城跡です。
 南北に細長い山頂部に曲輪(くるわ)がいくつも並ぶ連郭式(れんかくしき)と呼ばれる構造で、堀切(ほりきり)も確認できます。東西は急峻な斜面で、自然の地形を巧みに利用しています。
 展望台からは、町内に残る山城をはじめ、津山市、美作市の山城も遠望でき、群雄割拠の緊張感を偲ばせる遺構です。
 また、麓のイムラ遺跡(高円構)は、城主、家臣団の暮らした跡と伝わっています。(文:案内板より)(撮影2016年1月3日)

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風月軒

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 衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
 衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。

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アルネが出来る前の五番街附近

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五番街附近でアルネが出来る前の写真をお借りしました。
 五番街の名前の由来は、なんと、高橋真理子が歌った「五番街のマリー」から名づけられたのだそうです。なんで二番街、三番街、四番街がないのか?といつも不思議に思っていた謎が解決しました。
(写真提供:中山須美子さん)

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