高瀬舟と舟着場の常夜燈(山下)

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高瀬舟とみなと町津山
 高瀬舟を使って吉井川を上下する輸送は、江戸時代になる前から行われていましたが、城下町津山の発展に、高瀬舟の活躍は欠かせないものでした。森忠政や家来たちは、木曽川の川みなと兼山の出身です。河川利用の豊かな知識や経験は、津山でも大いにいかされました。
 高瀬舟は底が浅くて平らで、あまり深くない川を行き来するのに適しています。馬1頭に積める荷が150㎏なのに比べ、高瀬舟は1そうで6トン「(長さ約15m・はば約2m)(米100俵)」も運ぶことができ、鉄道が敷かれるまで、吉井川や加茂川などは荷物や人を運ぶ大動脈でした。
 瀬戸内の塩や海産物、そのころはまだ珍しかったしょう油やみかん、瀬戸物の食器やたたみ表、明かりの燃料となる油も、高瀬舟で吉井川を遡ってはこばれました。また、米・大豆・小麦などの農作物とともに、なべ・かまなどの鉄製品が津山みなとから運び出されました。川みなとには、石灯ろうの常夜灯が設けられていました。今もこの常夜灯は、楢や船頭町、安岡町に残っています。(わたしたちの津山の歴史)(写真は昭和57年3月27日高瀬舟進水式の様子)

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津山市吹屋町・城見橋北側吉井川河川敷での進水式の様子

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一時期、衆楽園の池に於かれていましたが、その後、吉井川に移したのですが、大水で流れてしまったそうです。

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津山市観光協会大手前広場の高瀬舟と舟着場の常夜燈
 江戸時代初期から明治30年頃まで、吉井川の高瀬舟は、美作と備前を結ぶ交通の手段で、米・ 大豆・塩・海産物などの輸送や、各地の文化を取入れる重要な役割を果した。津山市船頭町の吉井川河岸には、舟着場が築かれ、高瀬舟の目標として、また航行 の安全を祈るため、常夜燈が設けられていた。今はその姿はなく、かつて吉井川の河岸であったこの地に、往時を偲び大手前広場として、ここに復原した。なお 高瀬舟は実物の約四分の一の大きさである。(文:石碑より)

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(資料提供:津山市観光協会)(2013‎年‎2‎月‎19‎日取材)津山市吹屋町・城見橋北側吉井川河川敷写真提供:村上さん、最後の高瀬舟の写真は河辺の清水さん提供