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取材記事内を検索ワード「山城」で検索した結果,677件の記事が見つかりました。

鎧のかかった梅の木

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 今から420年ばかり前、織田信長の勢いが中国地方に及んできた。当時、この美作では宇喜多勢と毛利勢がいたが、信長の将秀吉の誘いで宇喜多は秀吉側についた。そして、秀吉と宇喜多の毛利攻めが始まった。
 神楽尾城には、毛利の武将大蔵甚兵衛尚清が荒神山城をにらみ、荒神山城では、宇喜多の武将花房助兵衛職秀(もとひで)が神楽尾城を攻め落とそうとうかがっいていた。大蔵は真正面から戦っては、勝ち目がないと夜襲を計画したが密偵(スパイ)により先刻察知され荒神城城下に潜入したとき、不意に荒神山城の伏兵に襲われた。不意を突かれた神楽尾勢はなすところを知らず逃げ帰った。各所に潜んでいた荒神山勢は神楽尾城を目指して追撃し、逃げる神楽尾勢を次々と討ち取っていった。ついに、闇に乗じて神楽尾城に潜入し、城に火を放った。かくして、神楽尾城は落城となった。

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千場三郎左衛門の霊鬼

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 土居家四代七郎右衛門の頃に次々と不思議なことが起こった。人々は、これは千場三郎左衛門の祟りであろうと恐れおののいた。
 その一つとして村内にある家に13歳になる子供が長い間「おこり」を病んで寝ていた。
 ある日、子供が突然床の上に正座して「村の長(土居七郎右衛門※1)に言いたいことがある。急いで呼べ。」村の長が来ると「われは、千場三郎左衛門の霊魂だ。」と立派な武士の様子で語り始めた。
「かつて、神楽尾城に居った時、汝の祖土居四郎次郎とは刎頸(ふんけい※2)の交わりを結んでいた。

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徳守神社社殿 県指定重要文化財(建造物)

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 当社の由緒については諸説あるが、徳守宰相を祀る「勅使宮」であるとする『森家先代実録』『作州記』等の説と、天照大神を祀る「勅旨宮」で天平以前の鎮座とする『美作風土畧』等の説との二つに大別できそうである。矢吹正則は『徳守神社誌』において「伊勢神廟ヲ勧請シ奉リシモ古キ御事ニテ一度皇太神ヲ合祭シ奉テハ之ヲ主神ト仰キ奉ルハ尊神ノ衷情二出シモノニテ敢テ祭神ヲ左右セシモノニハ非ルへシ」と合理的に解釈している。古代の総社宮での重陽祭では、幣を奉納する近郷八社の一つであったという。
 天文8年(1539)に焼失したが、慶長9年(1604)春、森忠政が築城に先立ち、津山の鎮守として徳守神社を再建、同年内に落成して遷宮され、新田村において70石の社領を寄附された。2代藩主森長継は寛永14年(1637)さらに10石を加増し、寛文4年(1664)に社殿を新築した。現在の本殿・釣殿・拝殿がこれに当たる。

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土居邸(津山市田邑)

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土居邸(津山市田邑)
 津山市の西端に位置する下田邑に一際広壮な屋敷が目を引きます。いまから400年以上も前に神楽尾城をめぐって毛利方と宇喜多方が対立したとき、備前加茂の白葦城から、城の救援に駆け付けた毛利方の土居四郎次郎という武士が田邑の土居家の始まりです。宇喜多方の荒神山城の花房助兵衛によって城を焼かれたため、四郎次郎は田邑の地に土着した。その子孫は田邑の地に帰農し、代々庄屋を務めてきました。土居邸は四郎次郎の孫の時代に建てられたもので、三段(反)もの広大な敷地をもつことから「三段屋敷」と呼ばれています。大戦中と戦後の動乱の時代を乗り切り、屋敷は守られてきたのです。(参照文献『津山百景』から)(土居家2014年5月24日取材)

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法雲山 妙願寺書院北庭に建つ郷(渓花院殿)のお墓

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 忠政の後を継いで津山二代藩主になったのは関家の流れである外孫長継である。1年後の寛永12年江戸に着いたその日の2月11日、池田備中守長幸の息女お鶴(大御前)と婚姻した。その次年の寛永13年には、将軍徳川家光の命により江戸市谷御普請手伝いとあわただしい消光の中、紹向とのトラブルもあった。長継27歳の時である。
 長継と紹向は従兄弟同士であって、長継は紹向を「親兄の如く」慕っていたのであるが、妙願寺再建立のことが紹向の意のままにならず、「諸子末寺一等に退院」したのであった。ここに注目すべきは「末寺」という表現である。四ケ寺が建立されて、本願寺がその寺号をいつ認めたかは定かでない。また、妙願寺が造営された後に寺中四ヶ寺誰が寺務をとっていたのかも不明であるが、寺院の形態として、妙願寺境内地南側に長泉寺・養元寺・教念寺・善正寺の四ヶ寺かあるいはその一部の寺が造営されていたことは間違いないと思われる。なお、長継の時代には盛んに寺社の造営が行われている。また、寺社とは別であるがこの頃は嗣子以外の男子に一家を創立させて分地を与え、幕府に願い大名の列に加えることが行われていた。

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「津山城もみじまつり」2018

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 2018年11月18日~25日まで「津山城もみじまつり」が華やかに執り行われました。
今年は初めて企画されたグルメフェスティバルで和洋スィーツフェスタがあり、色とりどり揃えられていて大人気でした。また、ステージでは津山シティーブラスの皆さんの軽快な演奏が素敵でした。それにちびっ子ダンサーが可愛い踊りがほほえましかったです。そうそう、姫路城から来られた若武者さん、津山城の石垣とコラボしてタイムスリップした様な気分になれました。ありがとう。

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光井家の先祖まつり2018

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河面地域で、ある老婆と話をしていると、次の旨の話を聞くことができた。
「私ら光井姓を名乗る一族は、上原の先祖の社をお祀りしている。
 年に一度、秋には先祖祭りとして、親類縁者の光井株が皆集まって近長の大夫(神主)に拝んでもらった後、その場所でにぎやかに会食する。神様として"武内さん"を祀っている。」後日、近くの老人に案内してもらった。上原集落に近い丘陵に、屋敷森か古い塚(古墳)を思わせるこんもりとした林があって、鳥居や境内をもつ先祖社が祀られていることが分かった。
 古代から氏神信仰は、一族で先祖を祀る社をもち、「予祝祭」(よわいまつり)として春、「収穫祭」としての秋にお祭りを行い、一族みんなでの共同飲食をする習わしがあった。(岡山県史古代2)これは、それを今にしてうかがえる氏神信仰の珍しい社である。
 光井家については、「森家以来の大農にして、旧家たり。相伝う、光井氏は当国神楽尾城主田中修理大夫某の子、光井大夫を以って始祖とす。その子孫毛利家に仕ふ。毛利背下の周防国住人光井右京亮の裔(えい)という。」(東作誌)とある。先祖は周防地方(山口県)の同姓の多い光の出自とのことである。市内にある神楽尾城や医王山城は、毛利配下の城であり、光井家は先祖が毛利家としてかかわるだけに、光井一族の信仰が注目される。

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2018 衆楽園の紅葉

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 2018年11月14日、曇りの予想でしたが晴れたので急いで、衆楽園のモミジを観に行って来ました。
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」として命名されました。
  衆楽園は津山城の北側(津山市山北)に位置しており、庭園は南北に長い敷地で、大半を池が占めています。別邸跡の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っています。(津山城より)

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2018 津山城(鶴山公園)の紅葉

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 津山城(鶴山公園)のモミジが紅葉をはじめています。2018年11月14日の鶴山公園のイチョウの木が綺麗に紅葉しているのを宮川から眺め、鶴山公園まで上がってきました。
本丸ではモミジとイチョウのコラボが美しく青空に映えていましたよ。それから、本丸から三の丸に裏から(腰巻櫓)降りる所は通行止めになっていて少し残念でした。

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出雲街道 津山城東むかし町 2018

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2018年11月4日(日)晴天の日に城東伝統的建造物群保存地区一帯で「出雲街道 津山城東むかし町」のイベントが執り行われました。当日は、橋本町~東新町の区間が歩行者天国となり、むかし町物産市やうまいもん屋台が出店して賑やかでした。通りを歩いていると、南京玉簾の皆さんとお会いしましたので記念に一枚写真を撮らせていただきました。笑顔がとてもいいですね。

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