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取材記事内を検索ワード「神社」で検索した結果,767件の記事が見つかりました。

美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

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光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

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ツクバネガシ(上村)

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 社殿の左手にある1号樹、そのすぐ後の2号樹、また社殿の右手と奥にも見かけられる。1号樹の根元は空洞になっており、永い年月を経たことを物語っている。
1号樹 目通周囲2.42m、根元周囲4.20m、樹高20m、推定樹齢250年
2号樹 目通周囲1.55m、根元周囲2.42m、樹高20m、推定樹齢200年
 ツクバネガシは、日本と台湾に自生する暖帯性のカシで光沢のある葉が、正月につく羽根に似て、枝の先端から4枚の羽根のような葉がでている。
 県下のツクバネガシの自生地では、ここが北限といわれる。
勝北町上村 朝吉神社/町文化財(天然記念物)/昭和55年4月1日指定
(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)(2018年8月26日撮影)

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植月城跡(小山城)(宮山城)勝央町

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 植月城跡 勝田郡勝央町植月中字小山(岡山の中世城館跡) 
永正九年(1512)宮山城と改名する。10㍍余りの高台のうえにあり、本丸は一三間×一三間、二の丸は一八間×一八間、北側に約一間半の築地が現存する。
 菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248)、植月、広野の地頭職となった時築城したといわれ、植月一族の本城である。城主は公興ー安嗣ー重嗣ー重佐ー重長ー重可ー可直ー佐豊ー基可ー重直ー重豊ー重政ー基佐ー能佐ー佐峻ー佐教。
 四代重佐は菅家一族とともに京都六波羅討伐に出陣戦死す。この功で大正5年正五位の追賞をうける。(城跡に記念碑が立つ)永正9年城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座し、本城も宮山城と改名する。三星城に味方し出陣するも、城主佐教をはじめ多くの一族戦死する。城は岡豊前守が接収、城主となる。毎年4月8日、植月一族城跡に集まり、先祖供養を盛大に行っている。(文:『勝央町誌』より)(2018年8月18日撮影)

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芭蕉句碑(津山市日本原字日本)

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 日本原神社の前にあり、建碑は弘化2年(1845)もとは、国道53号線の南側に建てられていたが、のちに北側に移され、国道改修のため、現在のところに移転した。
 芭蕉150年忌あたる天保14年(1843)に、日本原に芭蕉句碑を建てようと志していた、俳人有元渕龍(山形)が没したので社友亀由等が、其の意志を継いで建てた碑である。
 碑面に刻まれた句は、芭蕉が那須野で詠んだものであるが、日本原野の景観が、この句意に符合するところから、選ばれたといわれている。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)

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夏祭り宵宮 徳守神社万燈籠

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2018年7月22日に徳守神社万燈籠がありました。連日の猛暑の中でしたが、大勢の方がお参りに訪れていました。NPO法人楽アートプロジェクトさん演出の光のアート、地元の子ども達の描いたユニークなあんどん、また、奉納演芸等がありました。日が暮れて来ると境内の竹や樽を使った様々な美しい灯りが心癒してくれました。(徳守神社の夏越祭の神事と万燈籠の試験点灯の様子

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宮本武蔵生家跡地(美作市)

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武蔵生家跡
 武蔵は天正12年(1584年)に生まれ、父を平田無二(無二斎)、祖父を平田将監といい、両人とも十手術の達人であった。こうした武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の頃から武術にたけており、13歳の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以降諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29歳で豊前国小倉船島(巌流島)での佐々木小次郎との決闘など、60余度の勝負をし一度も負けていない。武蔵は流儀を二天一流と称し、その兵法を五輪書、兵道鏡に残した。また、書・絵・彫刻・工芸を好み禅の修行を重ね[枯木にもずの図」等、今日重要美術品とされている数々の作品を残して、正保2年5月(1645年)、熊本の千葉城にて62歳で亡くなり弓削の里に葬られた。
 昭和34年には、宅跡が「岡山県史跡」に指定された。

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大崎の荒神様

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 国道179号線沿いにあります。ご近所の方にお聞きしても詳しいことがわかりません。『大崎の歴史と文化 神社編』の中にその他の神社として荒神社の写真のみが掲載されております。179号線沿いからの参道はありません。(撮影:2014年11月13日)

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平尾家(武蔵の姉の嫁ぎ先の家)

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 ここは「元屋敷」と云う地名で町内で最も大きい茅葺きの家である。
 慶長5年(1600年)、武蔵が武者修行に出立した時、家の道具家の系図、十手(三つ)、すやりを姉おぎん夫婦に渡した。その後、元和9年(1623年)、おぎんの二男九郎兵衛景貞がここに居住し、武蔵家を相続した。
 庭の池水はその時作られた。辺には樹齢400年のタラヨウと樹齢300年のウツギの古木と屋敷の入口の樹齢300年の栗の巨木とがあり、さすがに武蔵にゆかりの深い平尾家らしい趣がある。
(文:美作市看板より)

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徳守神社の夏越祭の神事と万燈籠

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 2018年7月23日に徳守神社の夏越祭の神事が行われます。また、宵にあたる22日には長年途絶えていた宵祭が復活されてから3回目の万燈籠の神賑い行事が行われます。今年はNPO法人楽アートプロジェクトさんとのコラボで更にパワーアップした宵祭となりそうですね。また、23日の本祭りには、きもだめしがあったり、奉納演芸があったりと境内はにぎわいそうです。
※神賑いとは、「今」人々が楽しんでいる事や文化を神さまと共に共有し、共に楽しむ古来からの神事だそうです。(2016年夏越祭の様子

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