7月のイナバ化粧品店
 2021年7月15日、梅雨が明けているのに連日にわか雨と雷の日が続いています。
今日も雲行きは危うい。岡山県の緊急事態宣言は令和3年6月1日~6月20日で、今は津山市内の各施設も再開されていますが、東京などの状況を考えると遠くへ出かけるのは遠慮してしまいます。少しでも早く新型コロナウイルスの感染拡大が終息しますように!また、皆さんとお会い出来ますように!と祈りながら。
 2021年7月15日、梅雨が明けているのに連日にわか雨と雷の日が続いています。
今日も雲行きは危うい。岡山県の緊急事態宣言は令和3年6月1日~6月20日で、今は津山市内の各施設も再開されていますが、東京などの状況を考えると遠くへ出かけるのは遠慮してしまいます。少しでも早く新型コロナウイルスの感染拡大が終息しますように!また、皆さんとお会い出来ますように!と祈りながら。
 2021年6月20日小雨が降っている中でしたが、作楽神社へ行ってきました。
久し振りの訪問となりましたが、お参りした後ふと見ると、なんとなんと可愛いお花がひっそりと咲いていたので思わず撮ってきました。ただし、お花の名前がよくわからないのが残念です。次回は花アプリを入れて訪問してみたいと思います。
 ここは、備中松山藩6代藩主板倉勝職(1803~1849)が、別邸として建てた御茶屋跡です。隣接して水車があったことから通称「水車」と呼ばれました。平成23年(2011)3月、高梁市教育委員会が実施した遺構調査で、水車跡の石組みが発掘され「水車」の呼称の裏付けとなりました。
 幕末に藩政改革をすすめていた山田方谷(1805~1877)は元締役を辞した後、安政6年(1859)4月、長瀬(現・JR伯備線方谷駅)に住居を移しましたが、年寄役助勤として引き続き藩政に参画することとなったため、当時、利用のなかったこの「水車」を城下滞在時の宿舎としていました。
 同年7月、越後長岡藩士河合継之助(1827~1868)が報告の教えを請いに訪れた時はじめは武家屋敷花屋(高梁市鍛治町)に宿泊しますが、8月3日からここ「水車」に移り、長瀬とを往復しながら従学し、方谷の門人進鴻渓(1821~1884)、三島中州(1830~1919)などとの交流もありました。また、周防岩国藩の儒学者東澤瀉(1832~1891)もここに宿泊し、方谷と交流し数日滞在しています。
 現在の施設は、御茶屋跡に唯一残されていた建造物を、平成18年度(2006年度)に高梁方谷会・高橋地域まちづくり推進委員会・(社)日本建築学会中国支部岡山支所が調査し、これに基づいて平成24年度(2012年度)に水車とともに整備したものです。
落成記念:平成25年6月 高梁市(文:現地案内板より転載)(2021年2月10日撮影)
田中孝夫氏 画家(1902~1967)(田中孝夫の残した作品の一部)
 明治35年1月30日西苫田郡小田中270で生れ。その後上京し、東京市芝区神谷町へ転居。大正2年4月29日父治平死亡後はそのまま東京に居住していたが、孝夫が小学校5年終了後、津山へ帰郷し津山市田町に居住。
 大正10年3月津山中学を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科を卒業。美術教員の資格を得て、昭和3年4月兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務、その後、岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)の第6代校長になる。昭和25年3月5日退職。しばらくして昭和31年作陽短大、昭和32年から美作短大の教授になる。人柄がソフトで穏やかでいつもにこにこしていたそうです。日本人離れした風貌なので女学生のあこがれだったとか。
 丹波篠山高等女学校時代に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。その作品は迫力のある絵で最優秀作品候補になった。また、津山工業高校の校章をデザインしたのも孝夫だった。(文:埀井悦子さん、原田兼子さん添削)
 2021年6月27日、まきばの館までラベンダーの香りを楽しもうと友人を引き連れてやってきました。コロナ禍で外出を控えていた家族連れが沢山お見えになっていました。
 ラベンダーの種類にもよりますが、これからが本番でしょうね。いつものようにいろんなハーブやダリアが可愛く咲いていました。また、珍しい草花もいっぱいです。
 まきばの館は、岡山県農林水産総合センター畜産研究所が畜産や畜産物に対する理解を深めてもらい憩いの場所にしてもらうことを目的に平成3年4月に開園した施設です。
 2021年の美作市にある年々進化している江見さん宅のバラ園です。
江見さん宅のバラ園は、バラだけではなく小さな可愛いお花も沢山植えられていて、色々と楽しめます。今年は山際の方にアーチが出来ていて更に広がっていました。ピンクのアジサイが新入りで可愛く咲いていました。また、花々の間からは可愛い動物が顔を出してお出迎えしてくれます。
 2021年6月27日のウッドパーク声ヶ乢のあじさいの花です。(2014.7.1には沢山ありました)
ここのあじさいの花は嘗ては色とりどりのあじさいの花が沢山咲いていましたが、近年はどうしたわけか、年々少なくなってきて淋しいです。広いとお手入れも大変になり、高齢化に加え鹿の被害もあるでしょうから何とも言えません。その代わり、夏椿が年々大きくなりとても綺麗ですよ。
 2021年6月27日津山市八社(やさ)の小滝にあじさいの花を求めて行ってまいりました。
あじさいの花はこれからでしょうか? 水の量はさほど多くはありませんでしたが、近くによるとマイナスイオンたっぷりで涼しく爽やかでした。
 この小滝の謂れは津山市のホームページにも載っていますが、天邪鬼が天に昇って星を取るため、石を積み上げ、後一息というところで一番鶏が鳴いてしまい、石積みが崩れ、その振動でできたという話が残されている由来ある滝だそうです。なるほど、ここは標高も高く星にも近そうです。
 2021年6月20日に湯郷にある大山あじさいロードを訪ねてきました。
まだ先始めの頃で初々しいアジサイの花です。ここのあじさいロードは長いのが特徴です。登りきると展望台があり、湯郷の町が一望できます。
記念碑に「市道大山線、総延長2,190m、工事期間:昭和61年着工 平成8年完成。平成10年から大山住民により新たな観光地を目指し、あじさいの植栽に着手、現植栽本数 約2,700株、本年大山あじさいロード事業完了を記念し、記念碑を建立する 平成27年9月吉日 大山部落」とあります。
「方谷園」
 山田方谷は幼少より孝心深く、学問に優れ、長じて松山藩有終館の学頭となり子弟の教育に努め大石隼雄、三島毅を始め多くの人材を育成した。後に、松山藩の元締役、吟味役となるや藩の窮乏を救わんと上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励を掲げ藩政改革を成功せしめた。
 明治維新の際には藩主勝静を補佐して難局にあたり、板倉家を存続させ松山藩や、領民を救い今日に至らしめた。明治の新政府は、方谷を政府の要職に迎えんとしたが固辞して受けず、専ら子弟の教育に専念した。方谷没後、上房郡教育会の発足によりその墓前に庭園を築き先生の英霊をお慰めし、その功績を顕彰して末永く後世に伝えてひとびとの模範となるべく築庭した。(文:現地看板より)(2021年1月27日・4月11日撮影)