【津山人】津山工業高校第6代校長 田中孝夫氏

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田中孝夫氏 画家(1902~1967)(田中孝夫の残した作品の一部
 明治35年1月30日西苫田郡小田中270で生れ。その後上京し、東京市芝区神谷町へ転居。大正2年4月29日父治平死亡後はそのまま東京に居住していたが、孝夫が小学校5年終了後、津山へ帰郷し津山市田町に居住。
 大正10年3月津山中学を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科を卒業。美術教員の資格を得て、昭和3年4月兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務、その後、岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)の第6代校長になる。昭和25年3月5日退職。しばらくして昭和31年作陽短大、昭和32年から美作短大の教授になる。人柄がソフトで穏やかでいつもにこにこしていたそうです。日本人離れした風貌なので女学生のあこがれだったとか。
 丹波篠山高等女学校時代に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。その作品は迫力のある絵で最優秀作品候補になった。また、津山工業高校の校章をデザインしたのも孝夫だった。(文:埀井悦子さん、原田兼子さん添削)

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孝夫の両親(治平・きん)            兄弟と一緒の写真

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藝大時代                    東京美術學校(現東京藝大)時代

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静子(孝夫妻)、義男、母、孝夫、次郎、実枝子1935年頃   弟義男の葬儀にて

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東京美術學校(現東京藝大)卒業証書        丹波篠山高等女学校時代

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田中孝夫が丹波篠山高等女学校時代(昭和12年)に描いた、文展入選の作品「さわやかな丘」

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美術を教えていた頃               展覧会

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津山洋画展覧会 河井達海とともに

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静物(昭和4年 帝展入選)           魚市場(昭和10年 帝展入選)         

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古城(昭和24年 東光會展受賞)         草園(昭和25年 日展入選)
                       ※現在は傷みが激しい。

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林檎の樹(昭和26年 日展入選)         朝の道(昭和29年 日展入選)

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室内(昭和31年 日展入選)           バラ(平井病院院長宅の玄関に飾られている)

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「さわやかな丘」の絵と一人娘の久美子さん    元平井病院院長:平井敏之氏・久美子さん夫妻 
(加茂の平井病院へ嫁ぐ)の花嫁衣装

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平井敏之撮影(写真左から、長女:由起子、    (平井病院院長室に飾られている孝夫の絵)
長男:崇之、次男:通博、妻:久美子)

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残されていた絵

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版画(はがきサイズ)、年賀状、暑中見舞い等

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資料

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オリンピック(1964)日本で開催された時のもの

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峰南高校~津山工業高校の卒業アルバム

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津山工業高校の校章をデザインした孝夫
「アカンサスの葉を型どった本校の校章は古代ギリシアの神殿の柱頭の装飾からとったものです。これは第6代目の田中校長のデザインによるもので、"学問と芸術とスポーツの華であるギリシア精神をわが津工に"との想いを込めて創られたものです。」

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校章をデザインしていたノート

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各学校ごとに大切に残されたノート

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美作学園                    『想林』

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楽しそうな孝夫と妻静子             庭で絵を描く

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乾杯


田中孝夫氏プロフィール
明治35年1月30日生れ。岡山県西苫田郡小田中
出生後上京し、東京府東京市芝区神谷町へ転居。
明治41年4月東京府東京市鞆絵尋常小学校入学
明治45年(大正元年)同校5年修了し孝夫が小学校5年終了後津山へ帰郷し居住。
大正3年3月  津山男子尋常高等小学校卒業。
大正10年3月 津山中学を卒業。
大正12年4月 東京美術学校(現「東京藝術大学」)西洋画科に入学。
昭和3年3月  東京美術学校美術部・研究科卒業。
昭和3年4月  兵庫県立丹波篠山高等女学校勤務。
同校で勤務の傍ら昭和10年~12年に二部展、新人展など官展(日展)に3回入賞。
昭和15年9月10日 岡山県立福渡高等女学校勤務。
昭和24年8月31日 岡山県立津山峰南高等学校(現津山工業高校)勤務し教務主任になる。
昭和25年3月5日同校校長となる。
昭和29年 同高退職
昭和29年、31年、日展入賞。特に31年の作品は最優秀作品候補となる。
昭和31年4月1日 作陽短大に就任、同年12月8日教授となる。
昭和32年 美作短期大学美術指導主任教授となる。
昭和42年7月4日没


画歴

昭和4年     帝展入選  厨房静物
昭和10年     帝展入選  魚市場
昭和11年     帝展入選  話
昭和12年     文展入選  さわやかな丘
昭和13年     大潮會受賞 溌剌
昭和24年     東光會展受賞 古城
         東光會々友に推薦
         岡山産業文化博覧会展入選 工事場の丁
昭和25年     日展入選  草園
         東光會々友に推薦 
昭和26年     日展入選  林檎の樹
昭和29年     日展入選  朝の道
         東光會展受賞
昭和31年     東光會々友に推薦
         日展入選  室内
昭和34年     日展入選  五月
昭和36年     岡山県美術展覧会入選


田中孝夫教授を憶う  助教授 太田原 治蔵
 先生は、昭和42年7月4日に御逝去される。この日限り私どもの期待していた先生の新しい作品は、再び見ることができなくなってしまった。先生は滝沢修のマスクにおとらぬ、すぐれたマスクの持主であったが、もはやあの名優振りの温顔を見ることもできなくなり淋しい限りである。
 65歳という美術作家としての円熟期に入り、私共は、これからを更に期待していた矢先、誠に残念に思う次第である。先生は御逝去の半月ほど前、御病床にありながら、今後の仕事に対する熱意と、自己の強い意向を手帳に記されておられた。私どもは、どんなにか御全快の日の早からんことを切望したことであろうか。いま尚、先生のことを思うにつけ胸の痛みは消えることがないのである。
 先生の詩に次の如きものがある。

『空は青いというに』という題に寄せられた詩である。
方三尺(方三尺とは病床の窓)北を望む欅の大樹ありて
うっそうとして視界に充つ
梢を透して群青の空深く澄み
飛行機雲白く光りて
西より東へ直線に互る
ああ 吾れいまだ起きかねてあり
むなしき想いに視線は
鳶の輪を追うて離れず。

 これは加茂町平井病院病室(註:平井病院長夫人は先生の令嬢である)の北の窓に書かれたものである。また『油絵画家は、パレットを乾かしてはならぬ』と手記されている。これは、実に金言である。そして、手工芸、エッチング等の多方面の仕事もやってみたいと大いなる希望をも記されていた。早くに亡くなられ誠に残念である。
 私が津山中学校1年生のときに、先生は3年生だったと思う。海軍中佐であられた御尊父、田中治平氏(母・きん)長男として明治35年1月30日に生まれ、厳格な家風に育った方である。その頃、絵具箱を肩に、城山の石段を昇って行かれる長身の美少年を見て、私達に美術への強い憧れを抱かせたものである。
 先生は、大正10年3月津山中学校を卒業、大正12年4月東京美術学校西洋画科に入学される。画壇の巨匠、藤島武ニ教授の教室に学び、直接指導を受けられた。昭和3年3月卒業後、研究科にのこられ、研究目標をルネサンスの古典絵画におかれ、盛んに名画等を模写して本格的な油絵研究をされたのである。所謂、田中教授の本質を追求してやまぬ古典研究の時代であった。いまもお宅には、その当時の研究作品であるコレッジオ、ロセッティ―などの名作を模写された美しい作品が残されている。
 昭和4年6月、兵庫県立篠山高等女学校に奉職され、それより11カ年教鞭をとりながら画業に精進された。昭和4年の帝展初入選「厨房静物」から、文展に「話職員室」、「魚市場」等を発表された。篠山高女時代の大作に文展入選作で「さわやかな丘」(女生徒のバレーボール)200号の作品があるがいまも眼底深く印象にのこっている。
 昭和15年、岡山県立福渡高等女学校教頭として栄転されてから、益々意欲的な作品を発表された。先生は、また生徒の指導に心をいたされ、同校は度々全国高校手芸展にて最優秀賞を獲得した。殊に昭和24年よりの岡山県立峰南高等学校教頭、校長時代には、次々と日展入選作品「荘園」「リンゴ園」「朝の道」「室内」「五月」(衆楽園花菖蒲)を発表され、いよいよ心境のめざましい進展振りがみられる。
 また先生の油絵は次第に輝きを増し、ボナールの色調に魅せられ、いわゆる色の魔術についても深く研究され、それが画面に表れてきた。形の単純化の上に豊麗な色のマッスが輝きをました。次々と施された色と色とのバレールが非常に高く、これに適度のグレーが配されて気品があり、見るものに豊かなリズムを快く感じさせる作品にと進展していった。そして昭和29年岡山県立峰南高等学校長を退職された。
 また社会人としての文化活動は、終戦直後より津山に疎開されていた小早川篤四郎画伯、杉山卓現校長、現美作高等学校美術科、秋久多稼士主任等と共に東光会に所属され、美術の普及研究に社会人としての目ざましい活躍をされ、後には津山支部長、美作地区の美術協会長となられた。
 昭和32年、美作短期大学美術指導主任教授として迎えられ、以来デザインの指導にも専念されると共に、本学学生の優秀作品が次々と生まれ、度々全国展に入賞した。
 デザインの方でも先生の新鮮な感覚の指導のもとに素晴らしい学生の作品ができたが、その中でも、世界服装史の本格的な卵殻モザイックの大作の数々は、精密にして、ながい根気と時間を要する。この数多くのモザイックを幅1m、長さ2mの大きさに造り上げられたことは驚異の外なく、恐らく全国でもその例を見ないと思う。これは服飾科美術教室の貴重な研究資料と言えよう。
 かくして、多くの業績を残された先生の指導振りは親味あふれ、肌に感じる温かさがあり、学生達が真に敬慕していたことは、同室に机を置かせていただいていた私が、常に眼のあたりに感じたことである。これらのことが私の教育者としての心構えの上に大きく影響したものも事実であり、常に感謝し、お慕い申し上げている次第である。(昭和44年1月10日記)
註:戒名、仁教院峰南孝詮居士   墓所:英田郡作東町鷺巣
(文:『昭和44年3月 美作短期大学学友会 学生論文集「想林」第11号 杉山 栄教授、田中孝夫教授 追悼号』より抜粋)

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