「方谷園」築庭師は作州津山の岡島亀吉

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「方谷園」
 山田方谷は幼少より孝心深く、学問に優れ、長じて松山藩有終館の学頭となり子弟の教育に努め大石隼雄、三島毅を始め多くの人材を育成した。後に、松山藩の元締役、吟味役となるや藩の窮乏を救わんと上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励を掲げ藩政改革を成功せしめた。
 明治維新の際には藩主勝静を補佐して難局にあたり、板倉家を存続させ松山藩や、領民を救い今日に至らしめた。明治の新政府は、方谷を政府の要職に迎えんとしたが固辞して受けず、専ら子弟の教育に専念した。方谷没後、上房郡教育会の発足によりその墓前に庭園を築き先生の英霊をお慰めし、その功績を顕彰して末永く後世に伝えてひとびとの模範となるべく築庭した。(文:現地看板より)(2021年1月27日・4月11日撮影)

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橋から見た上流と下流

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対岸より望む

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犬養木堂書の「方谷園」の石碑          倚松庵

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立て看板

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倚松庵

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池ではコイが泳いでいます。

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方谷園碑 要約
 方谷山田先生の墓は、備中上房郡中井村西方にあり、各地よりせんせいの学徳を景慕してお墓参りする人が後を絶たない。そこで、上房郡長の働きかけにより、先生の墓前に泉石を布置し、花木を植えて参墓者の休憩所とし、方谷園と命名する。
 先生は幼くして聡明、学問、書道に秀でられ神童と称せられた。学問の志を問われた時、「国を治め、天下を平和にするためだ。」と答えられた。45歳の時、松山藩主板倉勝静に仕えて執政となられ、藩の財政を改革、文武を盛んにし、士民の生活を豊かにされた。その後老中となった板倉公を補佐して幕府に仕える。韓国の違約に対して、「即時韓国を征伐し、二三の隣国を合併しなければ、欧米と対等になることは難しい。」と進言されたが、これらの進言は採用されず、幕府は外国に対して開港を許可した。
 先生は、老後、松山藩のために計画した事は全て実行されたが、天下国家の政策は、一つも行われなかったと歎いておられた。明治維新後、日清・日露戦争を戦い、台湾、樺太を領地とし、韓国を属国として、南満州を租借した。このことによって先生が画策されていた「天下を平和にして欧米と対等になる。」という志が幕府においてではなく朝廷において実現したのである。このことは、先生もあの世で喜んでおられることでしょう。

 先生は、王陽明を師とされていた。陽明学は志を立てることを以って学問の根本としている。先生は幼くして志を立てられたので立派な学者になられたのである。先生を景慕する我々は、まず志を立てなければならない。
東宮侍講正四位勲二等文学博士 三島 毅  撰
陸軍騎兵中尉正五位君六等子爵 板倉 勝貞 篆額
門人             近沢則之男順則 謹書

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方谷園内には、風神亭・齋月亭・からかさ亭などがある

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↑先妣墓碑(撫髪之訓の碑)と方谷の父の墓     ↑方谷夫妻の墓は向かい合っています。
 「山田家は、今は落ちぶれているが、元武士の出であり、家を再興するのが父の念願である。丸川松陰について学ばせているのもこのためである。」といつも教えられていました。ある日、母が私の頭を撫でながら、「この子はきっと父上の志を果たしてくれますよ。」と言われました。
 自分はこの言葉を肝に銘じて大きくなり、学問にはげみ、今日のように藩に仕える儒学者となり、藩の政治に参画するようになりました。
 あの時の「撫髪之訓」に今わずかにお応えできたのでこの碑を建てます。(「方谷園」パンフレットより)

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山田方谷の妻の墓                山田方谷の墓

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墓地

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方谷園                     

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 1908年(明治41年)上房郡の教育会が方谷先生の遺徳をたたえ、その霊をなぐさめ、功績を後世に顕彰し、後の人々の模範としようと計画、先生の墓所の前に庭園を築くことになりました。なお墓所の周りの土地を山田家より買収しています。
 村では山根揚二郎氏、西 菊蔵氏等々の人達が中心になり、各集落に呼びかけると村々から手弁当の人夫が多数集まり、また園内に配置する木や石を持ち寄り、津山の築庭師岡島亀吉氏のもと1910年(明治43年)3月31日から工事にかかり5月31日に完成させました。
その概要は・面積:約2000坪 ・植樹:1300本余 ・庭石:350余
     ・経費:1860円余 ・延人夫:1500人 ・停舎 7棟
 その開園式は1910年(明治43年)6月6日、当日は1500人余の人が集まり花火が上がり、花車も2台、模擬店も出、中井尋常高等小学校の生徒が小旗を振り、「賛歌 山田方谷」の合唱と中井村始まって以来の盛大な催し物が夕方まで続いたといわれています。入口の「方谷園」の碑文にある大文字は、犬養毅代議士が揮毫されたものであり、開園式式当日に訪れています。
 当時停舎は7棟ありましたが、当時の建物で残っているものは「倚松庵」を含めて2棟のみと也、その「倚松庵」はかつて「蔵屋」にあった地蔵堂であって、これをお堂ではなく普通の亭として移築したものです。
 なお、現在この園は地元の強い要望により、平成24年4月1日より市の「公園」となりました。(方谷駅内の案内より)