日露戦争日本海海戦の副官・田中治平

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 田中治平 明治3年12月15日~大正2年4月29日(1871~1913)
 岡山県英田郡粟井村大字鷺巣(現美作市鷺巣)生まれ。軍人をこころざして明治26年(1893)に海軍少尉候補生となり。日清・日露戦争に従軍。東郷平八郎で有名な日露戦争・日本海海戦では、第2艦隊司令部・旗艦出雲の副官だった。大正元年(1912)、日本が外国に発注した最後の大型艦船である巡洋戦艦金剛を英国に引き取りに赴き、その地で病死した。
海軍兵学校出身、第20期、明治26年12月19日卒

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↑ 上記の写真は、美作市粟井村大字鷺巣の埀井家にて

 治平の死後、妻きんと子供3人が津山に戻り居を構えた家が,、空き家になって約50年経ち雨漏りで危険になりだしたのを見て、予てから治平に関する遺品が気になっていた治平の生家の跡継ぎの埀井裕人さんと奥さんの悦子さんが遺品整理を始めた。その相談を受けお手伝いをしたのが、治平の母親伊志の実家である原田家(加茂)の原田兼子さんです。(遺品の一部は、令和3年3月に津山郷土博物館に寄贈)

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田中治平とその家族が眠る墓地(鷺巣)

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中央が田中治平(明治43年12月初旬、帝国練習艦隊浅間笠智来航に祭祀撮影)

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前金剛副長 海軍中佐 田中治平         明治33年ころ真出鎮台府 東郷大将参謀副官時代

・田中治平 明治3年12月15日~大正2年4月29日(1871~1913)
・和気私立中学校閑谷黌卒、海軍兵学校を明治26年12月19日卒(第20期31名)
・大正2年4月29日0時 英国倫敦ヘリンエッタ町ヘリンエッタ病院にて死亡

治平の功績:東郷中将は日本海海戦の内命を受けたところで、副官田中治平少佐に大佐以上の幹部編成案の作成を命じた。田中副官はおのれ一存では完全を期し難きを感じ、長官には内密に親友の人事局員千秋少佐に事情を打明けて相談した。お手のものの千秋は早速快諾二人額を集めてその日の深更に幕僚各艦長の人選を完成した。この案は連合艦隊の高級参謀山屋他人を有馬良橘に変えられたほか全部東郷長官の採用するところとなった。山屋は海戦術の権威であるがその変更は東郷と接近したことなく、一方有馬は東郷の浪速艦長時代の航海長としてよく知られていた関係からである。東郷人事案は即日海軍省に提出され、それが何もかも知りぬいている千秋の手が加わっているのだからすらすらと運び、翌十九日司令長官以下の大異動が発表され、いつ開戦しても差支えなき連合艦隊の新陣容がととのえられたのである。(文:『神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(46-090)」』より一部抜粋)

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ロンドンからの絵ハガキが最後の手紙となった。

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金剛後甲板上に於ける田中副長祭典        帰国後、海軍葬

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東郷平八郎・乃木希典連盟の手紙         皇室から来た手紙

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東郷平八郎からの手紙              東郷平八郎からの手紙


遺品の数々
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遺品の中にあった「津山温知会誌」と在りし日の津山城

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 明治43年11月22日帝國軍艦浅間、笠置より成れる我練習艦隊は八代司令官統率の下に雄姿堂々金門灣頭を壓して来る一般在留同胞の歓喜譬ふるにものなし、同月27日我岡山県人會は同縣出身浅間艦副長田中中佐以下諸氏に乞ひ永久に之を記念せん爲め一堂の下に撮影するを得たり(岡山県人会の出身地が苫田郡津山町になっている)

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伊藤博文と韓国皇太子の接伴係              東郷平八郎と一緒の写真

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日本海海戦                   河内 安藝 伊吹 三笠 敷嶋 香取

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日本海海戦                   練習艦「朝間」乗組員一同撮影

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田中治平氏の遺品

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肌身離さず持っていた切手            最後の日記

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パスポート

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田中治平氏の遺品(肩章)

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旧海軍制帽(替えの帽子があった)

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勲章                      子供用のお土産

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ダチョウの卵                  徳利・盃など

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小銭入れなど                 カメラ、印鑑、洗面用具のセットなど

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住所録             位牌              遺品の数々

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様々な招待状                  鈴木貫太郎の名刺

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伊藤公爵国葬写真帳(徳川慶喜も参列)も残されていました。


治平の家族

 明治34年津山町大字北町難波方四郎長女きんと結婚。苫田郡西苫田村小田中村に居住したが、山国の津山では、治平が度々帰省することもままならず、治平がきんに上京して住むことを勧め、説得、明治39年10月以前に上京する。

治平が亡くなってから、2年後家族は津山に帰って来た。
 治平の手紙を整理した原田さんによれば「治平は、いつも戦艦に乗っていたのでいわば単身赴任の身、妻にあてた手紙は10通くれば10通の差出の住所が違う。そんな中、治平は手紙で一回り年下の奥さんの教育もしていたようです。また、子どもたちが真っすぐ育ったのは、父の名誉の重みと女一人で頑張って育ててくれている母を観て、自分を律していたのだろうと思う。子どもに対してもハガキや手紙などで愛情を注いでた様子がわかる。」とのこと。

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と志送別写真(大正5年9月17日)         田中治平の家族写真(大正14年7月6日)
お手伝いの丸山と志さんの送別会にて
(左からと志・次郎・孝夫・きん・実枝子・義男)

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田中治平の家族                 田中治平

孝夫(長男)
 津山中学を卒業後、東京藝大の西洋画科を卒業。美術教員の資格を得て、戦前は丹波篠山の高等女学校、岡山県立福渡女学校の先生、戦後は津山工業高校の校長を最後に退職。その後、昭和31年作陽短大、昭和35年から美作短大の教授になる。人柄がソフトで穏やかでいつもにこにこしていたそうです。また、日本人離れした風貌なので女学生のあこがれだったとか。
 丹波篠山の高等女学校時代(昭和12年)に制作したバレーボールをする少女達の絵「さわやかな丘」が文展に初入選。その作品は迫力のある絵で未だ家に残されています。また、津山工業高校の校章をデザインしたのも孝夫だった。(帝展入選3回・東光会展受賞2回・日展入選5回ほか)

次郎(ニ男)
 大正13年津山中学校4年終了後、父治平の跡を継ぎ江田島にある海軍兵学校に入り卒業、海軍航空隊に入り、父と一緒の中佐になりましたが、外地で終戦になり2年後に帰還。(奥さんと子供三人は、戦争中は加茂町に疎開していた)その後、奥さんの実家の逗子に移った。

義男(三男)
 津山中学を卒業後、東京外国語大学の英文科を経て、台湾銀行(当時は日本の領土)に入るが学生時代に患った結核が再発、津山に帰ってきて療養後に亡くなった。義男は子供のころから熱心に神伝流を続けていて、指導者の資格も取得。大学が休みになると帰ってきては子ども達を指導をしていた。

・実枝子(長女)は、津山高女を卒業後東京在住の会社員野田秀雄と結婚した。

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治平の死後、妻きんと子供3人が津山に戻り、居を構えた田町の家。
(文:埀井悦子さん、原田兼子さん添削)(撮影:2021-1-26、2-8,3-19,3-27、5-8、5-18、6-5、6-19)