河面 今も祀られている戦死武者の墓
河面下山地区の丘陵部は、かって武家時代の合戦場であった。尾根伝いに平家ゆかりの城であった新宮城につながっていること、周辺の見通しのよい高台であること、東西の真加部街道や南北の加茂谷に通じる道の要衝であったことなどによって、この周辺が勢力争いの場となって合戦が行われたと考えられる。(2012年1月28日取材)
河面下山地区の丘陵部は、かって武家時代の合戦場であった。尾根伝いに平家ゆかりの城であった新宮城につながっていること、周辺の見通しのよい高台であること、東西の真加部街道や南北の加茂谷に通じる道の要衝であったことなどによって、この周辺が勢力争いの場となって合戦が行われたと考えられる。(2012年1月28日取材)
▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)
宝篋印塔(2011.6.12)
宝篋印陀羅尼経を安置すると、三世一切の諸仏の全身舎利を奉蔵するものと信じられて作った塔を宝篋印塔という。基礎・塔身笠・相輪の部からなり層段を刻み、四隅に飾突をもつ笠部が特有である。また塔身に四仏梵字を刻し基礎の側部に年号等を記銘しているものがある。もともと供養塔であったが後には墓塔としても用いられたようである。
勝北町では数多く発見されているが笠部のみであったり相輪のみであったりするものが多い。ここ工門の宝篋印塔は康永2年という南北朝時代の紀年銘があり、岡山県でもすぐれたものであるといえる。「沙弥」「比久尼」の文字は判読しがたい。
勝北町教育委員会
勝北町文化財保護委員会
▲篠山城跡(2011.4.10)
早春の佐良山の東面に位置する山々は、可憐な白い花弁を一杯に広げた純白の「辛夷」の花で彩られます。その中でも一番美しい群生を見せる場所として、「篠山」があげられます。
佐良山には「佐良山三座」と称される山々があります。「嵯峨山」「神南備山」そしてこの「篠山」です。古歌に「美作や久米のさら山さらさらに わが名は立てじ萬代までに」と謡われた「久米のさら山」を巡って、諸説が飛び交いいまだ決着を見ていない佐良山を取り巻く秀峰をいつしか「佐良山三座」と呼ぶようになりました。
ちなみに嵯峨山には、これぞ「久米のさら山」であるという「佐良山碑」(市文化財)が津山藩により1816年に建立されていますが、それはそれとして佐良山の人たちはこの美しい山々をこだわりなく誇りに思っていると思われます。
津山城(鶴山公園)の石垣はすごいです。
田邊城(年末砦)
田邊城は津山市中北上と宮部下の境界線上の、標高231米の山上、600米にわたって砦は構築されている。
この城の縄張りは、縄張図でわかるように馬場曲輪をふくむ19ヶ所の曲輪から成立ってている。主郭は東西が22米、南北17米の長方形で周囲を土塁で囲んでいる。
主郭の東側に曲輪があり、その曲輪の東側に二筋の堀切が掘られ主郭の備えが堅固となっている。二の郭は三ヶ所の曲輪から成り、中心になる曲輪が東西43米、南北が18米あり、両側に小曲輪を一段ずつ持っている。三の郭には4段の曲輪があり、中心になる曲輪が18米の正方形を成し、西側に三段の小曲輪が続き、四の郭えと通じている。四の郭は中心になる曲輪が東西24米、南北14米の長方形をなし、北西の端に大きな井戸を掘っている。井戸の直径は7米もあり、深さは長い年月、土・木の葉で埋まって不明である。都合5カ所の郭からこの城は成っており、それどれの曲輪に3米から5米の切岸を備え、切岸の下に犬走りが取巻き、互いに連絡がとれるようになっている。
その他、掘切り.のある箇所から南側と北側に堅堀が下がっている。東の端に東西200米、南北最大幅75米の馬場と呼ばれている平地がある。以上が田邊城の概要である。(情報提供:田邊九吾)