
津山の今昔を辿ってみました。(1)

行啓道路(津山市山下)

明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。

津山城(鶴山公園)のさくら 2015

▲冠木門(公園になった為石段を作ったのですが、本当の姿は左右に防備のための石垣があったらしい)
「建武のころ(1334~1337)、すなわち足利尊氏が室町幕府を開いた頃、美作国の西北条部に鶴山という山があり、別名小篠山とも呼ばれていた。その南に留川(戸川)という清浄な川があった。付近には戸川町や林田町があって、毎月の一日と十五日には戸川の市と呼ばれる市がたち、美作国中の人々が群集を成して集まり、さまざまな商品の売買をした」(森家先代実録より)
ここでいう戸川町は吉井川の河原、あるいは川に面した安定し土地と考えられ、その町場を眼前にして、鶴山の中腹には福聚山妙法寺があり、その門前には門前町があったといわれています。
伝承では、妙法寺は津山城の「柳の檀」にあったとされています。この「柳の檀」というのは三の丸の段を指しており、鉄砲櫓の下の付近に大きな柳の木があったとされています。また、城内の煙硝蔵がった付近、現在の鶴山館が位置するあたりも妙法寺の院内であったと伝えられています。
そして、煙硝蔵の一段上の段には大きな桐の木があったことから「桐の檀」と称され、そこには鶴山八幡宮があったと伝えられています。また、戸川町には、後に城下の総鎮守となる徳守大明神が祭られていました。
慶長9年(1604)春、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い鶴山を城地と定めた森忠政は、まず「鶴山」の名称を「津山」改めたとといいます。そして、その年の秋には手斧始めとして徳守神社を造営し城下町の総鎮守としました。(津山城百聞録より抜粋)
▲冠木門(右手) ▲入口案内
▲入り口を入ってすぐの所(この階段は後から作られたものです)
▲石垣に印があります。(番所の屋根の址だといわれています)
▲印 ▲ご案内くださった末沢さん
▲この石の下が一番下の貯水槽だったそうです。(干ばつの時ここにだけ水があったらしい)
▲この印は番所を囲む塀の屋根の址
▲石段の石は一枚岩で広い。 ▲板で登りやすくなっています。
▲大きな門の基礎石 ▲これだけ広い階段は全国でも珍しいそうです。
▲門を作る時、左右の高さを合わせるために左の石垣は少し高くしてあるのだそうです。
現在南側の入り口である冠木門を通過すると百八十度方向を変えて石段を登り三の丸に至ります。その石段を登り始める場所の石段に向かって右側、つまり北側の石垣を見ると、一部分だけ石垣が高くなっている所があります。冠木門を入ってから三の丸に至るこの部分は「枡形」と呼ばれる構造になっており、入り口側から見て手前に冠木門や高麗門奥側に櫓門を配置するのが通常です。このですから石垣が一段高くなったところは本来櫓台であり、この上に櫓門が造られていたと考えるのが妥当です。ところが「武家諸法度」により未完成の「枡形」として工事を終了したものと考えられます。(津山城百聞録より抜粋)