津山城(鶴山公園)の石垣についてその3
津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。
参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)
▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)
▲鉄砲ヤグラ跡
▲写真右端に排水口が見えます。 ▲美しい石垣
▲石垣が幾重にも重なって美しい。 ▲裏中門に通じる所
▲裏鉄門の西側には雨落溝が存在し、そこに落ちた水は門の下の暗渠排水を通って流れていくことや、さらにその溝が木製の樋から石製のU字溝に付け替えられていることも明らかになりました。
この門は名のとおり、門の外側が鉄板で覆われた、搦手から本丸御殿に直接通じている重要な門でした。ところが文化6年(1809)に起こった本丸の火災によりこの門は焼失してしまいます。
※U字溝は、香川県の豊島(柔らかくて加工しやすい石だった)から、瀬戸内海を渡り西大寺で加工され、50kmほど吉井川を高瀬舟で運ばれてきた。津山城は豊島のU字溝が張り巡らされていた。(石垣を守るには排水が一番)。(津山城百聞録より抜粋)
▲発掘中でした。(最初の石段) ▲U字溝
▲清水が湧き出ていました。 ▲現在の腰巻櫓石垣の状態
ここの清水は津山城で唯一石の岩盤がある。(本丸の井戸に通じているらしい)
明治初年に津山城の建物はすべて撤去されました。そのため腰巻櫓石垣の上面からは雨水が入るようになりました。七間廊下石垣と崩落前の腰巻櫓石垣との間にはほとんどすき間がなく、雨水を排水するグリ石が入らなかったことからこの石垣のすき間に雨水が入るようになり、圧力に耐えかねて、明治23年の石垣崩落が起きたのだと思われます。(津山城百聞録より抜粋)
▲備中櫓の下(切手門)
津山城の石垣に用いられた石材については「津山市史」第三巻に「各地の古い城砦の用石もことごとく採り集め、はては古墳の石材や墓地の石塔までも搬出させた」と書かれています。
立派な石の階段
▲紫陽花の花も綺麗です。 ▲排水口