![医療の発展に貢献した久原家(二階町)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/04/kuhara8-thumb-120x120-90965.jpg)
医療の発展に貢献した久原家(二階町)
![津山の今昔を辿ってみました。(1)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/01/miyagawa-thumb-120x120-91196.jpg)
津山の今昔を辿ってみました。(1)
![行啓道路(津山市山下)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/07/800%E8%A1%8C%E5%95%93%E9%81%93%E8%B7%AF-thumb-120x120-91204.jpg)
行啓道路(津山市山下)
![明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/01/1-thumb-120x120-91748.jpg)
明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。
![今(2015)から約20年~80年前の津山市内の様子](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/04/%E4%BA%AC%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%89%8D_%E6%98%9402%28%E7%B4%8450%E5%B9%B4%E5%89%8D%29-thumb-120x120-93234.jpg)
津山城(鶴山公園)の石垣はすごいです。
▲火災で焼けた石を使用して組んだ石垣。
津山城表鉄御門は文化6年(1809)正月の火災で焼失したことは、「美作国津山城焼失付普請伺絵図」にはっきりと示されています。ところが、表鉄御門と両脇の石垣はすぐには再建されていません。石垣の修復が完了したのは文化14年年8月です。このことは、「勘定奉行日記」の記録からわかります。再建は焼失されてから約7年間もの間、城の玄関口にあたる表鉄御門の再建は行われず、ぼろぼろの状態のままになっていたことがわかります。(津山城百聞録より抜粋)
▲随分大きな石です。
▲敷石の下にはU字溝が埋没されている。
▲本丸の東側の石垣です。
▲本丸にあるこちらの石垣は一番古い組み方です。この階段は武者走りの石段(全国でもまれ)で、丹後山からの攻撃を受けないように、わざわざ築かれた石垣である。
津山城の石垣に用いられた石材については「津山市史」第三巻に「各地の古い城砦の用石もことごとく採り集め、はては古墳の石材や墓地の石塔までも搬出させた」と書かれています。
五番門南石垣の解体修理において、内側の栗石の中で五輪塔の石材が2点発見されています。栗石は優に数千を超えていますので、全体からみるとほんのごくわずかの割合でしか五輪塔は含まれていません。水はけを良くするためや石垣の強度を上げるために「栗石」と呼ばれる、握りこぶし大から人頭大の円形の石が充てんされています。(津山城百聞録より抜粋)
▲天守に入る勝手口のような入口 ▲天守閣入口
天守の北西に存在し、天守から裏中門方面への出入り口となる七番門。
二の丸から天守曲輪へ至る最も近いルートが、腰曲輪を経由した先にあるこの七番門なのです。そのため防備を厳重にするために、門の前の石段をあえて造らなかったのです。七番門の外の本来石段があるべきところには木の階段のようなものが取りつけてあったようです。日常はその階段を使用して通行ができるので、いざ戦闘のときはその階段を外して敵が七番門に近づくことができない構造であったのです。明治以降に撤去された七番門枡形の雁木(石段)と石垣は、平成21年度に元の形に復元されました。(津山城百聞録より抜粋)
▲ハートの石です。 ▲天守に登るこの石段は公園(明治)になってから
作られたもので、本来は木の階段があった。
▲天守台から備中櫓を望む
▲ここが一番展望が良いところです。(見とれて落ちないようにしてください。かなり急な石段です。)
月見櫓から中国山地を眺めると絶景です。津山盆地の真中に津山城が建っているのを実感できます。
▲那岐山に雪が残っていました。(2011.3.13)