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取材記事内を検索ワード「石仏」で検索した結果,47件の記事が見つかりました。

山の神(原)

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 「春に山より下りてきて田の神になる山の神は五穀豊穣をもたらす農耕の神であり秋終りにはまた山に帰って山の神となる。」とも言われ山村に住む人たちの信仰する山の神の呼び名があり、ダンナサマ・ジュウニサマ・サガミサマ・ノタガミなどとも呼ばれている。
 石造としては祠の物が多くあるが、自然石に「山神」「大山祗命」などと彫ったものが各地にもある。

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天狗供養塔(西上)

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 西上の山形仙のふもとに天狗供養塔の石碑がある。この天狗供養塔は昔鞍馬山に住んでいた天狗(修験者)が、この西上の地に舞い降り無病息災を祈願し暮らしていた。
 時が過ぎて天狗の話も薄らいでいたが、ある時土地の住民が家を建てて暮らしていると、主人が病にかかり祈祷師に拝んでもらうと「この家の下に鞍馬から来た天狗が居り、自然石で供養塔を立てなさい」とのお告げがあったと言われさっそく供養塔を建てると主人も良くなった。 
 天狗の命日には(旧暦一月十八日)主人が拝んでいたそうだ。また、供養塔の下には般若心経の一字一石の文字を書いた石を埋めてあるとも言われている。

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五輪塔(安井)

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 石造遺物の中で一般的に良く知られているのがこの五輪塔である。五輪塔は仏教の五大思想の教えによる宇宙観を表し、地・水・火・風・空の五つから成り、始めは密教の塔として現れたが、後に広がりを見せて全国的に分布している。
 時代の見方としては初期のものは円形(水輪)の作りがおしつぶされた形をし、全体的に安定感を感じられる。
 鎌倉時代後半より大形の五輪塔が現れるが、その後室町時代に入ると小形なものが数多く造られるようになる。
 埋葬地の上に建てる石塔を墓塔というが、五輪塔は本来堂宇の落成仏像の開眼時の供養のために建てられたものが、時代が下がるにしたがい墓塔化するようになってくる。
 室町時代に一石で造立されたものを一石五輪塔と呼んでいる。なお慶長年間あたりまでは一石五輪塔の造立は続くが江戸時代に入ると消滅してくる。

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金毘羅大権現(原)

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 金毘羅宮は香川県多度津郡琴平町に鎮座し、祭神は大物主神で、この神社は明治7年に現在の金毘羅宮となるまでは象頭山金毘羅大権現と称していた。一般庶民の信仰も深くほとんど全国的で、特に船に乗る人はこの神を厚く信仰している。
 原の岩逧の金毘羅さまの石碑は二百余年前の作で、その盤座のもとに石工伊八の銘が彫り込まれている。松尾伊八は泉州の名工で多くの石碑を遺している。
 金毘羅とは、梵語でクンピーラといって昔のインドの国で鰐を神格化した仏法の守護神として祀られ、江戸時代に入り航海の安全や猟師の祈願として信仰され、更に 水の神・農の神として広く信仰されるようになった。

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不動明王(西下・西上)

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 不動明王の性格で特に際立つのが怨敵降伏の力である。右手に悪魔を断ち切る剣を持ち、左手に人を引き寄せる、あるいは悪魔を縛る羂索を持つ不動明王は、目を吊り上げ牙をむき出し怒りを表す忿怒の表情である。
 不動明王の刻像は十三仏の中にも見られるが、独尊としての石仏造立が多くみられ、造形形式には不動一尊のものと衿羯羅(こんがら)・制吨迦(せいたか)の二童子を脇侍とする三尊形式のものとがある。
 西下の不動明王:右手に構えた利剣、左手の風になびく羂索剣で衆生の煩悩を断ち切り索で迷える者を縛って仏道に導き、背後に猛煙が追っても動かず、不動の心を持って信仰の道を進めという仏法保護の像である。
 不動明王像は五大明王の中心的な存在で、大日如来の使者となり悪を断じ禅を修し真言行者を守護する役割を担っている。

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石敢當(西中・原)

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 沖縄や南西諸島及び九州南部で道路の突き当りや、門・橋などに「石敢當」の三文字を刻んで建ててある石碑で、中国伝来の民俗で悪魔除けの一種である。
「敢當」とは向かうところ敵が無いの意で、災いを除くために橋・門または路上などに石敢當の三文字を刻んで建てた石碑。
 中国伝来の民俗で悪魔除けの一種で、我が国に伝わり、九州地方ではよく見ることができ勝北中学校とに新野小学校にあり、災い除けの意で建てたものであろう。

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千手観音菩薩(大吉 五穀寺)

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 変化観音の一つで千手千眼観自在菩薩といい、千の慈眼・千の慈悲を持って衆生を済度するという。普通は胸前の合掌する両手を除き、左右ニ十手ずつの四十手像で、掌中に各一眼をもつ。
 一手はよく二十五有界の衆生を救うとされることから、四十手で合計千手となる。また十六手のものもあり、それらの手にはいずれも仏具類を持ち、頭上には一面・九面・十一面または二十七面のものもある。
 千手観音は十一面観音とともに奈良時代より庶民の信仰を集めている。石仏としては私達の身近に見られるこの仏は、手の数も頭上面も儀軌(この場合は仏像彫刻上の約束事)によらないものが多い。
 なお五穀寺にある石仏については十一面千手観音菩薩と思われるが、見る人によっては十一面観音菩薩と思われるかもしれない。

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馬頭観音(杉の宮・上村)

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 馬頭観音は大日様を本願とする馬の供養塔として建てられたものである。村にある2基の馬頭観音はどちらも建立年代が遅く、牛の守り神である大日様の石碑よりも数も少ない。
 この地方の農村はやはり牛が中心であって、近世になってから耕馬の導入が多くなり、そのため建立の時期とも符合するように思われる。
 馬車などの運搬手段による馬の利用が多くなり、一部の農家にとっては大きな収入源でもあった。牛の供養と同じように、死んだ馬の供養とともに無病息災を願い、大日如来の「種子」が石碑に刻まれている。

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如意輪観音(安井)

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 如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略である。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴である。
 石を丸彫りにし、立て膝の上に片肘をつき、手を頬に当て瞑想する容姿は仏の慈悲を表す。女人の安産を祈願して、十九夜待ちの主尊として信仰された菩薩である。

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新茅町

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「新茅町は鉄砲町の西にありて1区域をなせり、東北は堤をもって鉄砲町、西寺町に界し西南は小田中村に限る、初め柳土手と称す。森氏流離の民をしてこの地に住せしむ。明治5年壬申戸籍編成にあたり改めて新茅町と称す。」(矢吹正則著『津山誌』)
 町の東端に大正の頃まで遠方よりお参りする人も多かったといわれている普門品観世音菩薩の石仏が在ります。その横に建立の由来は不明ですが、正面に南無阿弥陀仏、側面に五月吉氏と刻まれた墓があり、周囲には五輪塔が並んでいます。

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