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片山潜の青春ー故郷における労働と学習

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 自由と民主主義のために闘った人々の、精神的ささえともなった、戦前の革命的民主的出版物をひとりでも多くの人達に見てもらおうと、毎年「戦前の出版物展」を開催しております。
 この冊子は、同時開催で開かれた講演会「片山潜の青春・故郷における片山潜の労働と学習」河原要(片山潜記念館事務局長)氏の講演を要約したものです。なお河原氏の講演内容は、片山潜の生家や記念館を訪ねるときの参考になるものと思われます。『嵐の中の青春』林直道著と共にお読みいただければ幸いです。(文:2015年7月15日片山潜記念館だより創刊号より一部を転載)

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田中角栄書 義民堀内君顕彰碑(下高倉西)

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義人堀内氏 頌歌

一、むかし元禄11年 城下にせまる数千人 半切すがたなわの帯 堀内三郎工先頭に

二、村の苦しみ身に背おい 兼田河原に花と散る 義人の心とこしえに 天にもひびけ仰ぎみよ

三、ああ三百年星うつる 芳烈かおる顕彰碑 わが里人に語りつぐ 正義の誇り心意気

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2018 高野神社の秋祭り

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2018年10月21日(日)に平成最後の「津山祭り」が高野神社にて執り行われました。この日は昨年とはうって変わって晴天に恵まれ、盛大に神事が行われ本当によかった。だんじりもウエストランドに集合した後、高野神社まで行きます。今年は本殿が修復の工事の為、神様は一時御崎神社に遷座されていました。また、今年のだんじりは11臺だったそうです。(だんじりを全部撮ることは出来なくてごめんなさい。)

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2018年 白加美神社の秋祭り

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2018年10月21日、津山市小田中に鎮座する白加美神社の秋祭りが執り行われました。
 地元なので毎年伺っていますが、今年は特に若人がキビキビと舞う獅子舞がとても素晴らしかったです。それに、小学生の笛の音色も可愛かったです。小田中も高齢化率も高くなってきていますので担ぎ手も少なくなっていますが、白加美神社の秋祭りは延々と続いてほしいものです。

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ITで地域が変わる!大人も楽しい、IchigoJamプログラミング体験会 in つやまこうせん

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2018年10月19日、津山高専つやまイノベーションセンターIT研究会主催で「大人も楽しい、IchigoJamプログラミング体験会 iNつやまこうせん」が開催され参加して来ました。
講師の先生は、Presenter:株式会社jig.jp 会長 福野 泰介氏で、内閣官房オープンデータ伝道師です。
 習う前は、ど素人がプログラミングを簡単に組めるものかと半信半疑でしたが、勝手にプログラミングは難しいものと決め込んでいる自分に気づいたことと、素直に言われることを実行して行けばそんなに難しく考える事もないと思いました。先生は教え方がお上手で大人も楽しめました。

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天台宗 美作国小桁山極楽寺(小桁)

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極楽寺略縁起
 美作国小桁山極楽寺は天台宗延暦寺の末寺であります。
当山は文徳天皇御宇天安二年(西暦858)、極楽寺の開祖天台宗第二の高祖慈覚大師円仁が西國行脚の砌、当山の民家に止宿せしめたまう。
 覆う事三日三夜、しかる間に雲中に阿弥陀如来光明赫として左右の大士こと光を放ち、此の山の絶頂の影に向いたまいて大師遙拝して不思議かな云々。
 本堂阿弥陀堂は山頂にあり堂跡(堂屋敷)なおあり、山の頂を安養の峯と稱し、北の谷を成仏谷、南の谷は不老谷、山を於桁と云う寺を極楽寺とす。
 本堂の周囲には、観音堂・虚空蔵堂・大子堂・鐘楼・寺坊・十二院、一町東に二王大門あり。
 過ぎし七百年以来の災難で坊舎を失い埋没して、残る所の四ヶ寺は、藤元坊・久保之坊・西之坊・極楽寺であり云々。
         中略
 備前岡山の城主宇喜多直家は、花房助兵衛職秀(もとひで)をして荒神山に城を築かせ職秀城主となる。職秀は日蓮宗の強信者であるため極楽寺の僧豪顕に日蓮宗えの改宗を強く迫ったが、豪顕は可とせず拒否しました。
 職秀怒りて僧豪顕を追放し寺を取壊その用材を持ち帰えりて人馬の住家にと工事は進みましたが、完成を目前にして無風の時にも拘らず倒壊し人馬の多くが損傷する所となる。その後荒神山城は廃城となる豪顕帰えりて一字を営む。
 後法孫円慶帰えりて荒廃した堂を修復す。本堂、千手観世音菩薩をもって本尊となす。脇侍不動附釈迦地蔵、毘沙門、荒神の像を安す。
「美作圀久米南條郡小桁山極楽寺 本尊千手観世音略縁記 住法明院」による。

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巨白庵の墓碑文から(中村)

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新善光寺にある巨白庵の墓碑に次のような文がある。
  先生諱文水三箇尻氏號巨白庵豊後大
  分郡入蔵邨人考日貞輔先生其第三子
  也幼入禅門天保定住播磨三日月邨慶
  雲寺嘉永三庚戌歳退隠美作東南条郡 
  野村吟花嘯月以自娯旁以句讀習字教
 先生の名は文水、号を巨白庵といい、豊後大分郡入蔵村の三箇尻貞輔先生の第三子である。幼少のころ禅門に入り天保年間に播磨三日月村の慶雲寺に住んだ。嘉永三年に寺を退去して美作東南条郡野村に住み、漢詩や歌を詠み、習字を教えたと記している。
 この文によると、巨白庵は嘉永三年(1850)に野村に来た。彼の前任の初代講師半仏道人は三年ほどで帰国したとすれば、村塾の開設年は「成名校沿革について」の文政末期より一六・七年後の弘化四年(1847)か嘉永元年(1848)であることになる。このとき文化十二年生れの保田平兵衛は三二・三歳、細岩井手の開鑿に取り掛かる安政元年の七・八年前であった。
 巨白庵について付け加えておく。
 嘉永三年(1850)野村に来たと墓碑にある。平兵衛の招聘によって塾の教師になったと思われ、以後「一四・五年間」も教えた後出雲へ行くが、塾の門人の要請により明治二年(1869)また帰って教師を続けた。

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津山洋学資料館 春季企画展「文明開化と美作の医学」

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平成30年度津山洋学資料館春季企画展 「明治150年記念 洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」より

維新前夜
 幕末の日本は、ペリー来航、開国から、尊皇攘夷の高まり、長州征伐、尊王倒幕、大政奉還と続き、戊辰戦争へとつながる動乱の時代でした。事件・出来事に対する情報が錯綜し、流言飛語が飛び交うなど騒然とした雰囲気が社会を包んでいました。そのような中で、人々はより正確な情報を求めました。友人知人からの手紙では、自身の近況のみならず、巷に流れる噂や、知り得た情報が報告されるようになります。また、幕末には「新聞」が生まれましたが、中には発行者にとって有利な状況を作るべく、それぞれの立場から見た情報を庶民に提供するものもありました。
 このような混乱の中で、江戸幕府から新政府へと政権は移り、270年続いた江戸時代は終わりを告げたのです。しかし、民衆にとっては、それで混乱が沈静化したわけではなく、その後に続く新たな変化の始まりでもありました。


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近長代官 沼尻又治郎重遠墓(中村)

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近長陣屋領内であった勝加茂西中の真言宗新善光寺境内鐘楼の巽位に近長代官沼尻又治郎の墓があり、自然石の碑に
沼尻又次郎重遠墓
先考仕吾 土浦候嘉永癸丑四月為近長令赴任癸丑七月罹病以五日沒于府舎無子故以甥重道為嗣葬新善光寺謚曰 沼蓮院甫仭義照居士
と刻まれて居る。碑文には病死と記されてあるも事実は近長大庄屋甲田猪右ヱ門方に於いて自刃したものであり、其死因に就ても俚傳があるも明確でなく、此没後甲田猪右ヱ門が公用の道中、攝津尼ヶ﨑附近に於て沼尻氏の為めに討たれたとのことが傳へられてゐる。

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史跡津山城跡 三の丸北側発掘調査現地説明会

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 2018年9月15日津山城跡(鶴山公園)三の丸北側に於いて発掘調査現地説明会がありました。
津山市教育委員会文化課では、史跡津山城跡の整備事業の一環として、通路部分の調査を年次的におこなっています。平成30年度は、二の丸にある裏下門櫓台石垣の構造や、三の丸北側の江戸期の地表面を把握するために発掘調査を実施しました。

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