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取材記事内を検索ワード「山」で検索した結果,3417件の記事が見つかりました。

堀坂の「釜の口用水」トンネル

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▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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城東竹灯籠年越しまつり2011~2012

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2011年大晦日に大信寺において、昨年に引き続き「城東竹灯籠年越しまつり」が開催されました。このイベントは地区の方々の手作りの灯籠が並べられ、古い町並みを温かい灯りで浮かび上がらせる幻想的なイベントです。(昨年の様子はこちらから
また、大信寺には、放浪の陶工『浅本鶴山』のお墓があります。浅本鶴山は放浪の陶工、南蛮焼の名手として高く評価されています。大信寺には自然石に「陶工」と刻んだユニークな墓があります。また、本堂の扁額が「広開浄土門」と陶器製の文字で作られているのも彼の手によります。

鶴山は明治18年(1885)津山で生まれ、2歳で陶工の浅本房吉の養子になりました。放浪、修業の後、昭和11年頃津山に帰り作陶し多くの作品を残しました。

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津山市カウントダウン花火in小田中

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毎年恒例となった津山市小田中の年忘れ花火大会が行われました。(昨年の様子はこちら
2011年12月31日 (土)午後10時~ 津山市小田中笠松地区にて行われました。昨年は雪の中でしたが、今年は暖かな年越しとなりました。また、今年の花火は例年より少なめでしたが、その分来年は多く上げるそうです。この日は、飲み物・そば・豚汁・ぜんざい・雑煮・焼き芋などがふるまわれ、大勢の皆さんが舌鼓。私も沢山ご馳走になりました。笠松の青壮年会を始め、近隣の青壮年会や町内のみなさんご馳走様でした。お陰さまで身も心も暖かい年越しとなりました。

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佐良山のふしぎ

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神南備山に昇る朝日(嵯峨山より)
押渕・下種・荒神山を経由して種から皿に至る旧出雲街道には後醍醐天皇にまつわる史跡が点在しますが、その中で「御駐輩場」と呼ばれる場所があります。ここには後醍醐天皇が隠岐島にご配流の際「輩」を止められ休まれた場所として、種地区の人たちの手で整備され、立派な歌碑が建てられています。

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つやま自然のふしぎ館【貝編】

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アオイガイ(カイダコ)(2011.8.19)
2枚合わせると葵の葉に似ているところからこの名が付いた。この貝の中にはタコ(雌)が入って産卵、保育する。(信じられますか?)世界中の熱帯、温帯の海で漂流しながら生息している。
(鳥取県浜村海岸で高木文三氏採取、寄贈)その他、つやま自然のふしぎ館には、沢山の貝の殻がありますよ!いとつひとつ、見ていると自然って不思議がいっぱいだなぁ~と思います。

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「美作ローカル鉄道」2012年限定カレンダー

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古い木造駅舎が数多く残り、のどかな風景が広がる因美線沿線。「津山扇形車庫」「みまさかスローライフ列車」などでご紹介。その貴重な風景が2012年フォトカレンダーになっています。しかも、限定販売中!壁掛けタイプと卓上タイプの2種類があり、津山観光センター等で販売されています。
詳細はこちら↓
http://owowow.net/photo/top_1/calendar11/img1/slowlife.pdf

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曹洞宗 澤龍山 少林寺

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曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)(2011.5.4)

開創 1525年(大永5年)
本寺 久米郡美咲町 夢中山幻住寺
開山 大網愚溪大和尚(幻住寺6世)
当山は、小森山圓福寺(中北上1319番地)と称していたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の名和長年に身を寄せられた1333年頃兵火によって焼失。
その後180年程そのままになっていたが、1516(永正13)年11月に幻住寺六世大網愚溪大和尚が、当時の岩谷城主大河原弾正の懇請を容れて、後に少林寺末寺となる観音寺となった地(中北上1161番地)に小庵を建立し、山号を山形臥龍に似たるを以て澤龍山とし、1525(大永5)年に「澤龍山小林庵」と称し開堂。
1597(慶長2)年、大河原弾正の三男智麟首座小林修理の修繕を得て、庵から寺に改称「小林寺」とした。
1767(明和4)年頃の中北上村は、相州小田原の大久保藩の領地で西川(現在の美咲町)代官所を設けて領内を支配していた。当山七世物外璿山大和尚が、その西川代官高橋文右衛門の賛助に依り、50余ヶ村民の出役を得て現地に移転し寺名を小から少に改め「少林寺」とした。
本堂・開山堂は、1993(平成5)年再建。本堂内には当山に金龍銀龍が舞う幅3・3mの見事な壁画が一対あり、津山市・山形弘画伯の作品である。
本尊「十一面観世音菩薩」は、岩谷城を築城した山名教清寄進の岩谷山慈悲門寺の本尊であったが、当時(戦国時代)の情勢により開基・大河原彈正が少林寺に移したものと伝えられる。【資料提供:曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺】

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2011年12月のイナバ化粧品店

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2011年12月のイナバ化粧品店内です。クリスマスの準備も出来ていましたよ。
稲葉浩志さんのお兄さん稲葉伸次さんとご一緒することがあるのですが、未だにお兄さんの怒ったところを見たことがないし、ひょうきんな人で周りの人をいつも和ませてくださいます。そんなお兄さんの子供の頃の話をママに聞いてみました。
「兄弟喧嘩しているの見たことないなぁ~。私はただお店に出て化粧品の販売をしていて忙しかったので、おばぁ~ちゃんに見てもらっていたから良い子になったんだろうかなぁ~。やっぱり子育ては核家族じゃなく大勢の中で育ったほうがええと思うよ!」「お兄ちゃんを叱るとき、家の外に放り出すこともあったけど、戸を少し開けておくとそこから家に入って来ているので"伸ちゃん、何処から入ってきたん?"と聞くと"僕はな!忍者なんじゃ~"と得意そうに話すんよー。そんな子どもだったので怒っているの見たことないわ!」「うちの家族は喧嘩はしないわねぇ~」とママのとって置き話。

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