平賀元義の遺墨展が旅館「お多福」でありました。
平賀元義(ひらがもとよし)(1800~1865)という人
幕末に万葉調の歌人として活躍した国学者で、正岡子規や斉藤茂吉等に影響を与えた人で個性的な書風を持つ歌人としても知られる。
1800年(寛政12)に岡山藩士平尾長春の子として生まれ、岡山城下富田町で育った。
1832年(天保3)脱藩し、平賀左衛門大郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などを放浪し、多くの万葉調の歌を作った。奔放純情で奇行が多かった、と伝えられる。
生涯不遇の人で、学才を認められた矢先、路傍で卒中のため急死した。
平賀元義という人は作州を中心に旅を重ねた人で、弟子にこよなく愛された人である。
◎エピソード
・仏教が大嫌いな人で、仏教信者と袖が触れただけでも禊(みそぎ)を繰り返したという。
・武士の魂を持ちつつ、弟子の家を渡り歩いていた歌人。
(門人の家では塩とチリシを使い放題使ったので門人の奥さんから嫌われていると悟ったら、また次の門人を探して宿にしたが、門人からこよなく愛された人。
・使い古した着物を着ていた。
正岡子規は元義を「万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し、万葉調の歌を世に残したる者、実に備前の歌人平賀元義一人のみ」と激賞し、「血を吐きし病の床のつれづれに元義の歌よめばうれしも」の歌を残した。吉井勇には「元義の歌を思ひぬ爐の辺には吉備山おろし吹くにあらなくに」、清水比庵には「元義の後に生れて元義の歌をよむこそたの志かりけれ」の歌もある。このように子規を始めとする多くの歌人が讃えた元義の歌だが、元義自身は「我好みて古書を読む。たまたま情緒の発して歌となることあれど是我が本領にあらず」と言った。そして自らは「御国の神社と存亡を共にする存念」との決意のもと門人たちと共に各地の神社古史料等の探訪の日々を続けた。それはまさに一貫不惑の信念の実践であった。人生の大半を備前、備中、美作を中心とした限られた小空間でしか行動しなかった元義だが、内に大いなる理想を夢を追い、皇学の徒としての歳月を重ねた。現実生活にあっては厳しく悲惨な状況を呈していたが、この地にはそのような元義に対して心から尊敬し師事した門人や支援者がいた。
おそらくその要因は元義という一人のサムライが持っていた極めて稀な「純粋性」と「ひたむきさ」によるものだったのだろう。
作州維新文庫第3回所蔵展
幕末の万葉調歌人平賀元義遺墨展
主催 作州維新文庫
幕末に主に作北を流浪した歌人平賀元義は、美作地域の神職を中心に多くの門人を持ち、国学や歌学を教授していました。恋の歌を素直に詠むことから吾妹子(わぎもこ)先生と呼ばれ、生前は不遇な人生を歩みましたが、没後正岡子規による特異なる万葉調歌人として世に紹介され、一躍その名が知れるようになりました。筆跡にも特徴があり、その遺墨は現在でも多くの人に珍重されています。今回はそれらの和歌幅や、門人たちの短冊、また平賀元義研究書籍なども多数出品。
平賀元義という一人のサムライの一生は、一見不遇の極みにあったかの如くみえる。
確かに、終生主たる居宅も定めず、流浪に流浪を重ねた60有余年。その漂泊の一生は、彼がなまじ世間並みに妻子を持ったがゆえに、なおさら凄惨であったともいえる。
しかし、一人の国学者としての生き様からみれば、それは真に不運不幸といえるであろうか。永き流浪の果て、遂には生国備前の片田舎の路傍に倒れ、当分はその墓とて建つことはなかった元義ではあるが、その時胸中に自らの過ぎ過ごした年月に対する後悔の念が果たしてあったのであろうか。いかに苦しく、厳しい日々の連続にあっても決して弱音を吐かず、はたまた、その夜泊まる宿もなく困り果てても"月面白し 我ひとりゆく"とうそぶき、平然と夜通し歩き続けた元義のことである。おそらくや不動の心で非業の最期を迎えたであろう。
それ程までに彼をして大楽観の境地に至らしめたものは一体何であったのであろうか。
彼が生涯をかけて挑み続けた国学者としてのその求道の生き様、そしてその原動力となった自覚と自信。ひいては信仰にまで高められたその思想、学問。それらはいまも時代を越えて我々に感動を与え続け、またわが国固有の歴史の中枢としてひかり輝き、受け継がれるべきものである。(文:竹内佑宜)