津山城ひなまつり2018
2018年3月7日津山城(鶴山公園)三の丸にある鶴山館にで津山城ひなまつり(2018年3月3日~3月11日)が開催されており拝見してきました。明治初期の雛飾りや可愛い市松人形も飾られていました。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代のお雛様で見ごたえあります。その他、沢山の格式高いそれぞれのお雛さま達が今年も楽しませてくれました。今年はB'zの看板が飾られていて(ひな祭り期間中は勿論当分の間)何だか得した気分になりました。(2016年の雛祭り)
2018年3月7日津山城(鶴山公園)三の丸にある鶴山館にで津山城ひなまつり(2018年3月3日~3月11日)が開催されており拝見してきました。明治初期の雛飾りや可愛い市松人形も飾られていました。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代のお雛様で見ごたえあります。その他、沢山の格式高いそれぞれのお雛さま達が今年も楽しませてくれました。今年はB'zの看板が飾られていて(ひな祭り期間中は勿論当分の間)何だか得した気分になりました。(2016年の雛祭り)
かつて津山城には内山下と呼ばれる総曲輪があり、その外周を土塁と濠が囲っていた。明治の廃城以後、同20年(1887)頃までには土塁を崩して濠を埋め立て、内山下は市街地に組み込まれた。そのため、この総曲輪の区域で旧状をとどめる箇所はほとんどないのだが、京橋口桝形の土塁・石垣の一部と、宮川口~京橋口間及び二階町口の南北の濠の名残りとして水路が残っている。
2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。
2017年9月10日(日)午後1時30分~3時、津山市教育委員会が実施していた、新津山国際ホテル建設に伴う埋蔵文化財発掘調査の調査成果の現地説明会が(第1回は2017年6月4日)行われました。
今回は近世の城下町における屋敷地を区画するためとみられる柱穴列や建物の基礎部分とみられる石垣などが確認されました。また、井戸の遺構も見つかりました。
2018年1月14日の津山の朝の雪景色です。今年は全国的に寒さが半端じゃない冬となりました。津山でも度々雪が降りましたが、全国の大雪となった地域の方に比べれば少ない方でしょう。津山城の石垣に積もった雪と朝日のコントラストがいいなぁ~と思い撮ってみました。
2015年4月1日~15日恒例の「津山さくらまつり」の様々なイベントが開催されました。今日はあいにくの小雨が降っていますが、太鼓ショー&備州岡山鉄砲隊、宝蔵院流槍術、コスプレ、伝統芸能交歓会などが賑やかに行われました。また、美作のグルメと観光展もあり、津山ホルモンうどんを始めとして、津山そずり鍋、まほらプリン、津山じゃあじゃあ麺、津山黒豚餃子など津山の名物が沢山並んでいました。その他にも、お茶席やちびっこ広場など家族で楽しめる企画もありました。(2015年4月4日・5日撮影)
美作忠魂碑
美作五郡の各寺院が、よくまとまったのは地理的にも北条県の伝統があるが、実はすでに明治末年に協力の実績を築いていた。というのは津山町所在の仏教各宗協議所なるものが、本源寺に設けられていた。明治三十八年の十一月、ここで日露戦争の戦死者のため記念碑を建てようという相談ができた。当時苫田郡長をしていた小沢泰にこれをもちかけたところ、町長をしていた矢吹金一郎に相談してやれということになり、矢吹と仏教各宗代表が基礎案をつくった。これが鶴山公園にできた美作忠魂碑の出発であった。結局津山だけのものでなく、美作一円のものにしょうと、神職や有志に呼びかけ募金に着手したのである。費用三千円計画で募金運動をはじめたが難航したようだ。しかし努力が実り、四千三百余円を集めたものの、予定より費用も高くつくので、継続して募金をしつつ、第一回招魂祭を、四十年の四月二十一日にしている。この日が後年毎春の招魂祭の日となった。
耐震改修工事に伴い、平成32年4月までの予定で、現在休館中です。
津山郷土資料館 1)行政/役場・警察署 2)津山市山下92 3)昭和8(1933)年 4)津山市庁舎
昭和4(1929)年2月の合併当初、津山市の庁舎は、明治7(1874)年に小学校の校舎として建てられた元津山町役場を使用していました。その後、新庁舎建設の気運が高まり、昭和8年7月、津山城跡の南麓に、地上3階、地下1階建ての鉄筋コンクリート造として竣工しました。
備中櫓は天守台の南東、本丸南面に突出した石垣上に立地する2階建ての櫓です。
高さ約13メートル、幅約24メートル、奥行き約8メートルで、延べ面積は約288平方メートルです。
60を数える津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
構造
備中櫓は、木造一部2階建てで屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒廻りも含めて白漆喰塗りです。通常、櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが、この備中櫓の内部は全室畳敷きという特徴を持っています。
これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。