取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「門」で検索した結果,752件の記事が見つかりました。

近長代官 沼尻又治郎重遠墓(中村)

shinzenkouji9.jpg

近長陣屋領内であった勝加茂西中の真言宗新善光寺境内鐘楼の巽位に近長代官沼尻又治郎の墓があり、自然石の碑に
沼尻又次郎重遠墓
先考仕吾 土浦候嘉永癸丑四月為近長令赴任癸丑七月罹病以五日沒于府舎無子故以甥重道為嗣葬新善光寺謚曰 沼蓮院甫仭義照居士
と刻まれて居る。碑文には病死と記されてあるも事実は近長大庄屋甲田猪右ヱ門方に於いて自刃したものであり、其死因に就ても俚傳があるも明確でなく、此没後甲田猪右ヱ門が公用の道中、攝津尼ヶ﨑附近に於て沼尻氏の為めに討たれたとのことが傳へられてゐる。

近長代官 沼尻又治郎重遠墓(中村)の続きを読む

史跡津山城跡 三の丸北側発掘調査現地説明会

ura5.jpg

 2018年9月15日津山城跡(鶴山公園)三の丸北側に於いて発掘調査現地説明会がありました。
津山市教育委員会文化課では、史跡津山城跡の整備事業の一環として、通路部分の調査を年次的におこなっています。平成30年度は、二の丸にある裏下門櫓台石垣の構造や、三の丸北側の江戸期の地表面を把握するために発掘調査を実施しました。

史跡津山城跡 三の丸北側発掘調査現地説明会の続きを読む

美作東部―大庄屋巡り「甲田猪右衛門僖行」(近長村)

kouda10.jpg

 近長村は勝北郡に属し、北西を加茂川が流れる。慶長九年の検地帳では近永村とあり、検地高は三百二十五石余、元禄十年の美作国郡村高辻帳では三百六十五石余とある。現在の津山市近長である。森藩廃絶後、元禄十一年には幕府領となり、延享四年(1747)以後常陸国土浦藩領となる。ここには高札場・米蔵・牢屋が各一ヵ所あったと云う(東作誌)。土浦藩は美作の内吉野郡・勝北郡一万九千八十石余を領し、初めは吉野郡下町村に代官所があったが、寛政四年から当村にこれを移している。

美作東部―大庄屋巡り「甲田猪右衛門僖行」(近長村)の続きを読む

工門の津山元標三里(新野東)

genpyo1.jpg

距津山元標三里 新野東(明治5年9月/距津山元標三里/勝北郡新野西村字中野)
 勝北町新野東、新野郵便局東、国道53号線沿いに里程標がみえる。もと同町西下を通る因幡街道に設置されていたものを現在地に移転したものである。
 当時この県の道路元標は津山宮川大橋西詰に設置されていたので、ここまで至る里程を示したもので、移転により多少の相違があるかもしれない。昭和48年 町指定文化財

工門の津山元標三里(新野東)の続きを読む

美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

mitsui-1.jpg

光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)の続きを読む

美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)

kozue22.jpg

保田市郎右衛門(野村)
 野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。  

美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)の続きを読む

仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

nikieisuke-4.jpg

 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡の続きを読む

B'zカラオケ大会 津山市中心市街地「合同夏の市2018」

deguchi9.jpg

 津山市中心市街地「合同夏の市2018」が、銀天街特設会場/マルイ本店内特設会場で2018年7月28日(土)12:00~19:00開催されました。中でも、ものまね専門芸人中村素也さんを迎えての「B'zカラオケ大会」は全国各地から参加された方々も大いに盛り上がりました。なんと、中村さんがイナバ化粧品店を訪問した時、イナママは浩志さんと電話中で丁度カラオケ大会の話をしていたそうです。中村さんを見つけたママが粋な計らいで電話を代わってくださって、浩志さんと初めての電話対談をされたそうです。中村さんはとても嬉しそうに話しておられました。

B'zカラオケ大会 津山市中心市街地「合同夏の市2018」の続きを読む

武蔵の記念館・武道館

musashi18.jpg

 剣聖宮本武蔵は、この地岡山県美作市宮本において、父・平田無二斎と、主家新免家の妹お政の次男として天正12年3月(1854年)に生まれました。
 武蔵の生家は、北を宮川で南を小童谷川で守り、30間(約60m)四方の強固な堀めぐらしていた、宮本の溝と呼ばれていました。山柴水明の山の丸い武蔵の里の構えは、地理的には山陽と山陰の重要な連絡路であった因播州街道に沿ってあり歴史的には中世、特に戦国時代には山陽と山陰の両勢力による略奪の地がこの旧大原町でありました。
 武蔵の家系は代々十手術を伝えてきたので、当然武蔵も平和な今日では考えられない厳しい剣の教育を受けたものと思われ、幼少の頃から武術にたけており、13歳の時播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ってからそれ以降、剣の道一筋に練磨し、その間京都の一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め、29歳で九州舟島において、佐々木小次郎に勝つまで生涯60余度の勝負に一度も負けたことがありません。

武蔵の記念館・武道館の続きを読む

賀茂競馬(特別扱いの倭文庄馬)

kurabe4.jpg

 倭文歴史と文化を語る会"ふるさとの歴史再発見の旅"(平成30年5月5日)日帰りで京都市上賀茂神社競馬神事と三十三間堂の旅に参加して来ました。この旅は倭文地区の歴史を子ども達に伝えたいと企画されたのだそうです。子ども達も実際に自分たちの目で競馬を見て何かを感じてくれたことでしょう。


競馬(くらべうま)
 馬は神聖な動物とされ、五穀豊穣・天下安隠を祈って、神馬(しんめ)として奉納された。上賀茂神社の競馬、下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)など、馬が登場する神事は多い。上賀茂神社の競馬は、1093年(寛治7)に、宮中の菖蒲の根合わせで勝った女房たちが、そのお礼に奉納したのが起りとされる。病気平癒祈願に、十列(とおつら)走馬の奉納という盛大なものもあった。(文:倭文地区歴史と文化を語る会)

賀茂競馬(特別扱いの倭文庄馬)の続きを読む