美作東部―大庄屋巡り「甲田猪右衛門僖行」(近長村)

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 近長村は勝北郡に属し、北西を加茂川が流れる。慶長九年の検地帳では近永村とあり、検地高は三百二十五石余、元禄十年の美作国郡村高辻帳では三百六十五石余とある。現在の津山市近長である。森藩廃絶後、元禄十一年には幕府領となり、延享四年(1747)以後常陸国土浦藩領となる。ここには高札場・米蔵・牢屋が各一ヵ所あったと云う(東作誌)。土浦藩は美作の内吉野郡・勝北郡一万九千八十石余を領し、初めは吉野郡下町村に代官所があったが、寛政四年から当村にこれを移している。

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 甲田氏の出自は河内国丹比郡田村郷に甲田好隆と云う郷土があり、その裔孫の甲田與三左衛門が天正年中に美作国に来り、子孫勝北郡に住したと云う。東作誌では「奮毛利元就に仕ふ。藝州折敷畑の戦に敗れて作州に来けり」と云うが、詳細は不明である。この與三左衛門と「安西軍策」にある甲田丹後嫡子與三左衛門との関係は正確には判らない。

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現地説明資料より転載

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延享四年土屋相模守の領となり、與三左衛門六代の孫甲田重行が大庄屋を勤め、以後四代に亘って大庄屋職を相続したと云う。幕末甲田猪右衛門は御代官次席を勤め、御普請方大庄屋後見となり「近長甲田の名遠く聞ゆ」(名門集)と云う。東作誌には勝北郡十六村、吉野郡三村大庄屋甲田猪右衛門とあり、作陽真須鏡では
 大庄屋 甲田熊太郎
 肝煎庄屋代勤 甲田和太郎
 村々庄屋 甲田与右衛門 とある。

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 土浦藩が美作国勝北郡、吉野郡を領有したのは延享四年であるが、吉野郡は寛政二年まで、勝北郡は明治二年までの間であった。寛政四年に代官所を置いた近長村では一本松の旧陣屋跡には何も残っていない。近長大庄屋の旧宅は遺構を留めている。

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土浦藩の近長陣屋跡 解説版 と見晴らしのよい跡地(稲荷前)(2014年10月8日撮影)


 美作庄官録なる書物は江戸末期に作られたものらしく、その著者も明らかでない。又、その史料性も曖昧ではあるが、津山領森家時代或は津山領松平家時代の大庄屋名については分限帳と一致しているから、大庄屋並或は大庄屋格についてもそういう時期があったと考えてよいのであろう。大庄屋手伝とは夫々の大庄屋家の嫡子が大庄屋の業務の見習をしているわけであるから、ここでは大庄屋格について触れておく。
平成26年度 津山歴史講座 第7回(現地見学)
大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―
美作の歴史を知る会 宮澤靖彦・多胡益治


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現在の甲田家(2018年9月7日撮影)                元の門の位置