賀茂競馬(特別扱いの倭文庄馬)

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 倭文歴史と文化を語る会"ふるさとの歴史再発見の旅"(平成30年5月5日)日帰りで京都市上賀茂神社競馬神事と三十三間堂の旅に参加して来ました。この旅は倭文地区の歴史を子ども達に伝えたいと企画されたのだそうです。子ども達も実際に自分たちの目で競馬を見て何かを感じてくれたことでしょう。


競馬(くらべうま)
 馬は神聖な動物とされ、五穀豊穣・天下安隠を祈って、神馬(しんめ)として奉納された。上賀茂神社の競馬、下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)など、馬が登場する神事は多い。上賀茂神社の競馬は、1093年(寛治7)に、宮中の菖蒲の根合わせで勝った女房たちが、そのお礼に奉納したのが起りとされる。病気平癒祈願に、十列(とおつら)走馬の奉納という盛大なものもあった。(文:倭文地区歴史と文化を語る会)

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途中休憩を取った宝塚北サービスエリアはトイレがすごく綺麗。最新の道路状況も解る。

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二条城の前を通る                三十三間堂

 三十三間堂は、1164(長寛2)年、後白河上皇のために平清盛が法住寺殿内に創建した。鎌倉時代に再建された本堂内には大仏師・湛慶が手がけた千手観音座像を中心に、左右にズラリと千手観音像が立ち並ぶ。また、最前列には二十八部衆と風神像・雷神像が守護神として並び、圧巻の空間を構成している。

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柱と柱の間が33ある(神社では柱と柱の間を言う)三十三間堂を後にして、上賀茂神社へ向かう。

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賀茂競馬(京都市登録無形民俗文化財)が行われる上賀茂神社(賀茂別雷神社)は世界文化遺産。
競馬の概略
 鎌倉時代初期にその基礎が確立された「賀茂競馬」は、現行もほぼ古儀のまま踏襲され、代表的な儀式競馬として奉仕される。

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 先ず、競馬ほ芝生西(芝上)で行われる事が古例となっており、要所要所に行事の目印になる桜や楓・桐の木が植えられ、馬場には埒(柵)が設けられる。青柴を結わえる処から「柴垣埒」とも云われる。

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↑ 乗馬足洗の儀が行われている。

 競馬の騎手を「乗尻」と云い、左方と右方に分かれ競馳するが、その服装は武徳殿に於いて左右近衛府官人が着したのと同様舞楽のもので、左方は「打毬楽」右方は「狛桙」の装束がそれぞれ用いられ、その装束の色彩により、単に左方を「赤」右方を「黒」とも称している。

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 尚、今は廃れたが、鎌倉時代後期の当神社の年中行事を記した『嘉元年中行事記』五月五日の項には、競馬終了後、乗尻が往時の競馬節会にも奉奏された舞楽「蘭陵王(左舞)」と、答舞である「納蘇利(右舞)」を奉奏したと記載されている事は注目に値する。
 競馬に出場する馬は、毎年競馬料所の荘園から清い馬(野生馬)を一頭ずつが献進されたところから、現在もその荘園の名を負う例である。中でも荘園二十箇所第一の倭文庄の馬は重要視され、馬装も他の馬と異なる。

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倭文庄の馬を先頭に一の鳥居前に集まる。そして、二の鳥居の方に歩いていく。

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倭文庄馬                              英語で説明する神官さん

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 性質が全く判明しない野生馬を初めて競馬に用いる為、手強く調教して良き乗馬に仕立て上げる事が重要となり、そのような当神社の馬術・調教法を「賀茂悪馬流」と称するようになった。

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 今も競馬競馳に先掛け行われる「三遅」「巴」「小振」の儀は、馬場元から中央の辺りまで約七回半往復させあたかも悠長な儀式に見えるが、乗尻が馬の性格を良く理解するのと同時に、馬も馬場に慣れ親しませる為に行う重要な儀式で「賀茂悪馬流」の作法の一つである。

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                                ↑ 埒(らち)
※「らちが明かない」の語源。囲いや仕切りの事で、主に馬場の周囲に設けられた柵のことを埒(らち)と言い、加茂の競馬で、柵が外されるのを待ちわびた一般客が言った言葉からとする説がある。

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乗尻 競馬の騎手で、本行事の花形(左方は赤・右方は黒の袍を着す)。

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左方1番倭文庄 差鞭 ※鞭を差しながら後方へ向くのが特徴。
右方1番金津庄 差鞭 ※追馬である右方は前の馬を追い、前方へ鞭を差す。
馬場元(スタート地点)スタート前に一馬身差で走り出し、その間が縮むか開くかで勝負を決する。

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倭文庄(ビアン)が一頭で走る  倭文庄がゴール後金津庄が一頭で走る  二番手以降は二頭で競う

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高台で勝負を見る左方後見

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                        馬装が立派な倭文庄馬

 他に重視される事は、五月一日の足汰式の手水から五日の競馬奉幣前の陰陽祓に至る迄、一連の行事には「祓」が実に十数度行われる事である。これ程迄に祓清めの儀式が厳重に行われる事は、神への畏敬の念も然る事ながら、「陰陽道」の思想・作法が当神社の競馬に於いて今尚色濃く残っている証と思われる。(文:上賀茂神社「賀茂競馬」パンフレットより転載)(2018年5月5日撮影)


上賀茂の社家(西村家庭園)
京都市指定文化財(名勝)上賀茂伝統的建造物群保存地区(国)

 江戸時代、上賀茂神社の社領は二千五百石余と言われ、この大きな社領を背負った神官達が明神川の流れに沿った社前に家を構えたのが社家町である。

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 この錦部(にしごり)家の旧宅(現在は西村家別邸)は、現存する社家の中では最も昔の面影をとどめる庭園が残っている。この庭は、養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤木重保が作庭したものと推察される。
 庭内へは明神川の水を取り入れ"曲水の宴"のために小川(曲水川)の水としたあと、もとの明神川へ返す工夫がされている。また、神事の前の身を清めたゆかりの井戸、さらに神山(こうやま)(上賀茂神社の御神体山)の降臨石を形取った石組などが残っており、神主達の昔の生活がしばられて、非常に興味深い。

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 家屋は西村家八代目清三郎が明治の中期から後期にかけて建てたものである。
庭内に見られる小型の羊歯(しだ)は、ここだけに見られる「カモシダ」という原生植物である。

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 現在、明神川沿いに見られる苔むした土橋、すがすがしい土屏や門、清楚な妻飾りの棟の低い母屋、土屏越しにのぞかせる緑豊かな樹木等、また屋敷内の前庭の池の水は明神川から取水し、池を流れて清いまま元の川へ流し返す地域のルール等、これらは全て社家と社家町を象徴するかけがえのない貴重な歴史的遺産で、市内でも現在ではめったに見られない景観を保っているのも見どころの一つである。(文:上賀茂の社家 案内パンフレットより)


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