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出雲街道 下山本陣(勝央町)

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出雲街道と下山本陣
 出雲街道は、ほぼ現在の国道179号線及び181号線に沿って播州姫路から雲州松江に至る藩政期の街道である。作東町杉坂峠から美作町北山・上相を経て、勝央町から津山市内に入る。当地勝間田は、江戸時代に美作・出雲など各藩主の江戸参勤交代の宿場として栄えた宿場町である。古くは商家が軒を連ね、その中を貫く街道の片側には小川をつくり、滝川の水を引いて流していた。終戦直後まで、きれいな水がながれ食器などを洗う風景がみられたが、今はその面影はなく溝だけが残っている。町並みも大きく変わったが、瓦葺き屋根に卯建が上がり、格子戸の家が今もところどころに残り、往時を偲ばせてくれる。

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森藩政下に移転 山上がりした真言宗の髙福寺

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林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。

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山田組の荒神様(津山市野介代)

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○荒神信仰の盛んな作州
 民俗学者直江広治氏の研究によると、荒神信仰は全国的に盛んであるが、屋敷神・株内の同族神・部落神・産土神に関わる屋敷外の地荒神は、東は千葉県、西は宮崎県の範囲までであり、その中心は中国地方でとくに岡山県と島根県が最も盛んな地域とされています。岡山県下では、県南より北部の方が盛んであり、江戸時代に修験者の活躍が盛んであった作州こそ、まさに荒神信仰の本場ではないかと考えられます。
 江戸時代、作州で一番多い宮は荒神様であったといわれています。当美作町では、どれほどあったのでしょうか。幸いにして江戸時代半ばの天明4年(1784年)岩見田の百姓赤堀氏の手になる「奉勧請国中惣神宮」の貴重な記録があります。それを整理してみると、荒神様は町行域の42大字(旧村)で合計して129という多きに達しているのであります。(文:作州民間信仰代表 荒神様とそのお祀り 宮澤靖彦) (2014年4月12日取材)

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重要伝統的建造物群保存地区にある渡邊邸(東新町)

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 なまこ壁や防火用の袖壁・卯建(うだつ)のある古い家が軒を連ねる旧出雲街道沿いにあり、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された一角に渡邊邸があります。津山城を解体した材料を使って建てた家なので、明治7年に解体したからそれ以降に建てられた家だそうです。この重厚な建物が昔のまま残っていることが素晴らしいです。(すぐお隣は、津山の代表的商家であった旧梶村家の住居です。)【渡邊邸は非公開です。】(取材2014年9月27日)

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兼田の大きな道標と交通の近代化(津山市国分寺)

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兼田の大きな道標と交通の近代化(明治末~)2014年6月29日取材

 津山の最初の鉄製の橋、昭和5年にできた。旧出雲街道の川崎と河辺を結んで加茂川にかけられたこの橋は長さ90.5m、幅5.35m、現在は約70m下流に因美線の跨線橋を兼ねた国道53号線の新兼田橋ができている。

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2014年 上山神社の夏祭りとスカイランタン(美作市上山)

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2014年8月12日(火) 今年も上山神社で執り行われた、復活3年目の上山集楽盆踊りに友人と参加してきました。地域内外から約450人が訪れ、スカイランタン(天灯)、花火、紙芝居、タップダンス、盆踊り、くじ引きなどを楽しんでおられました。 また、屋台ではカレーライスやおにぎり等の心のこもった手作りグルメを満喫しました。そして夜空に舞い上がる500個のスカイランタンには会場のみんなが歓声をあげていました。また、昨年に引き続き福島生き活きキッズの子供達も参加して上山の盆踊りを楽しんでお帰りになったそうで良かったですね。

2012野焼きイベントの様子2012年夏祭りの様子2013年夏祭りの様子2013上山神社取材

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津山洋学資料館夏季企画展(資料・モノ・がたり)

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箕作阮甫と東海道

 1853(嘉永6)年、ロシアから開国交渉の使節としてプチャーチンが来航し、箕作阮甫はその対応御用を命じられました。長崎でロシア使節との外交交渉を終えた阮甫は、山陽道、東海道を経て江戸へ戻ります。その途中、小倉でペリーの再来を知らされ、また、広島の沼田では急ぎ戻ってくるよう指示を受け津山への墓参も中止して、先を急ぎました。

 阮甫が足早に通り過ぎた東海道は江戸時代の主要街道で、多くの浮世絵師がその宿場を描いています。阮甫の日記「西征紀行」の記述とともに各宿場の様子をご覧ください。

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お夏の墓(津山市阿波)

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2014年5月18日(日)阿波ふるさとまつりの会場を後にして、お夏伝説で有名な所を訪ねることにしました。途中山の中に入るのですが、はたして車でお夏さんのお墓まで行けるのかと不安に思いましたが、無事辿り着きました。山奥の静かな所でした。


お夏の墓は阿波川の上流、お夏が身を投げた深山渓谷の渕にある。阿波の外れであり、山深いところにあって阿波の中心部からは遠い。お夏の墓は今も深山渓谷の上流、阿波山のふもとにあって、野の花が時折添えられているという。

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