津山洋学資料館夏季企画展(資料・モノ・がたり)

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箕作阮甫と東海道

 1853(嘉永6)年、ロシアから開国交渉の使節としてプチャーチンが来航し、箕作阮甫はその対応御用を命じられました。長崎でロシア使節との外交交渉を終えた阮甫は、山陽道、東海道を経て江戸へ戻ります。その途中、小倉でペリーの再来を知らされ、また、広島の沼田では急ぎ戻ってくるよう指示を受け津山への墓参も中止して、先を急ぎました。

 阮甫が足早に通り過ぎた東海道は江戸時代の主要街道で、多くの浮世絵師がその宿場を描いています。阮甫の日記「西征紀行」の記述とともに各宿場の様子をご覧ください。

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東海道の宿場にゆかりのある歌舞伎の登場人物を描いています。

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江戸日記 1853(嘉永6)年7月から12月の津山藩江戸藩邸の公務日記。阮甫が長崎出張を幕府から命じられたことが記されています。

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目薬の話(ハッキリ目薬etc広告)

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日本最長寿の目薬「大学目薬」は1899(明治32)年に、田口参天堂(現・参天製薬)から発売された液体目薬。描かれた人物は、明治期に医学を教えていたお雇外国人エルヴィン・フォン・ベルツであるといわれています。

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医師の日常(寺子屋の手習い手本・幻灯機用ガラス板・ガラスからくり)

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西洋へのあこがれ

 江戸時代、日本は出島という小さな「窓」を通して西洋を見ていました。小さいがゆえに、人々はそこから垣間見える西洋に憧れ、そして、それを手に入れようとします。ガラス器などの舶来品がもてはやされ、浮世絵にも描かれていました。

 また、幕末に開国し、オランダ人以外の西洋人の姿が見られるようになると、早速、その様子を浮世絵に写しました。これらの絵は開港地の名をとって「横浜絵」とも呼ばれました。

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正確な魚や貝の写生「魚貝譜」1802(享和2)年、「江戸一目図屏風」 鍬形蕙斎筆

 津山藩のお抱え絵師 鍬形蕙斎が描いた魚や貝の写生画。それまでの日本画にあったような類型的な絵ではなく、写実的に描かれています。

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洋学者の手蹟

 津山からは宇田川家や箕作家をはじめとして、数多くの洋学者が輩出されています。彼らは西洋科学の研究・紹介に努めたため、西洋的なことばかりをしていたような印象があります。ところが、江戸時代の洋学者たちは洋学研究をはじめる前に、漢学の修行をすることが必須でした。宇田川榕菴が、自分の手記で漢学の修行をおざなりにしていたことを後悔していた話は有名です。つまり、一流の洋学者は、同時に一流の漢学者でもあったのです。今回はそんな洋学者たちの手蹟をご紹介します。(文:津山洋学資料館案内より)2014年7月17日取材

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箕作阮甫の書は素晴らしい                    宇田川玄随の書は美しい


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洋学資料館で咲く花たち

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洋学資料館で咲く花たち

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洋学資料館で咲く花たち