西陵団地(小田中)
 昭和54年(1979)5月1日に津山市小田中笠松地内に誕生しました。そして昭和59年(1984)1月に町内会として独立しました。
「企業は人なり、額に汗して社会に奉仕する人々のより幸せを求めて、この西陵の地に新しいまちづくりが完成いたしました。」西陵花壇の三本のくすのきの下に、この言葉が刻まれた石碑があります。
 昭和48年春、岡山県立津山商業高等学校OB中心の、津山市内企業26社で協同組合西陵団地設立、組合企業従業員の持ち家制度として83区画の建設事業が始まりました。
 昭和54年(1979)5月1日に津山市小田中笠松地内に誕生しました。そして昭和59年(1984)1月に町内会として独立しました。
「企業は人なり、額に汗して社会に奉仕する人々のより幸せを求めて、この西陵の地に新しいまちづくりが完成いたしました。」西陵花壇の三本のくすのきの下に、この言葉が刻まれた石碑があります。
 昭和48年春、岡山県立津山商業高等学校OB中心の、津山市内企業26社で協同組合西陵団地設立、組合企業従業員の持ち家制度として83区画の建設事業が始まりました。
 時は室町幕府が出来て間もない南北朝時代、播磨を拠点とする赤松氏と山陰の雄山名氏が美作の国の領有をめぐって争っていた時である。
 正平15年(北朝文和5年 1360)美作の守護赤松貞範は山名時氏を攻撃して篠茸城(久世)、高田城(勝山)、院庄城(津山)、神楽尾城を落とした。その後、神楽尾城は赤松入道世貞が守っていた。
お福大明神 -津山市一方-
 嵯峨井堰の土手は、何度築いてもくずれてしまう。困りはてた村人たちが相談したあげく、水神様のたたりだから人柱をたてようということになった。四方八方手をつくして、人柱になってくれるむすめを探したが、どうにも見つからない。
 そこへ、川向こうの院庄村のひゃくしょう八助のむすめお福が、十何か村のおひゃくしょうのためならと名のり出た。十六の美しいむすめであった。
 お福が人柱となってから、土手がくずれることは一度もなく、村人たちは小さなほこらをたて、お福をまつった。これがお福大明神で、今は佐良神社にある。(文:『岡山の伝説』より)
明治八年、東京に師範学校ができ、箕作秋坪が校長になったとき、秋坪は漢学の教授として津山から親せきに当たる大村桐陽(斐夫)をよんだ。この人にまつわることだが、安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。
和歌神社の由来
 美作や久米のさら山さらさらに
  わが名は立てじよろづ代までに
 今から一千余年前清和天皇が即位されて最初の新嘗祭に神に供える穀物を奉納する国として美作の国が定められた。その貢物の献進に際し美作の国歌として奉唱したのがこの歌で古今和歌集にも記されている。以後、"久米のさら山"は一躍世に出て名所となり、やがて平安時代の和歌全盛期を迎えるにおよんで久米のさら山を詠んだ歌は数少なくはない。
 和歌神社はこうした和歌の歴史の残る久米のさら山を永く後世に伝えようと修理の太夫顯季卿が美作の国を治めていたとき和歌神をここに祭り和歌の宮と称したことに始まり久米郡誌にも載せられている通りの由緒ある神社である。
 なおこの神を敬い祀れば学問が大いに進むことから今では世にひろく崇められている。(文:境内案内より)
 平成31年(2019)明けましておめでとうございます。
今年もファンの皆様と偶然でもお会いできますこと楽しみにしながら、ママの追っかけをしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
 早速ですがイナバ化粧品店の仕事始めの1月4日にお店に伺ってきました。すでに店内には身動き出来ないほどのお客様でいっぱいです。イナママもすごくお元気で「今年もよろしくねぇ~」とご挨拶。(上記写真はイナバ化粧品店提供)
2019年が始まりました。津山市小田中にある白加美神社の初詣の儀式が今年も厳かに執り行われています。ピンと張りつめた雰囲気の中での初詣の風景です。
 平成31年元旦の初詣風景です。
徳守神社の初詣の参拝者は境内入り口鳥居の外に続き行列となっていました。境内ではお焚き上げの炎の近くで若者が大勢集まっています。また、おみくじやお守りを買い求める方で賑やかです。今年が皆様にとって良きお年となりますように。
 墨に生きる 書・水墨画等思い出と感謝 阿部風木子
 2018年11月23日に亡くなった阿部風木子(阿部正直)氏ですが、いつかお目にかかりたいと思いながら月日が経ってしまいました。ただ生前に掲載の許可だけは戴いていましたので掲載させて頂きました。生家から生前の風木子氏の事も伺って来ました。
 岡山県美作市出身。大正12年生まれ。水墨画や書は、教育者だった父の影響で幼いころから始めた。雅号の「風木子」は、父(風木)の子だから風木子。
 当社の由緒については諸説あるが、徳守宰相を祀る「勅使宮」であるとする『森家先代実録』『作州記』等の説と、天照大神を祀る「勅旨宮」で天平以前の鎮座とする『美作風土畧』等の説との二つに大別できそうである。矢吹正則は『徳守神社誌』において「伊勢神廟ヲ勧請シ奉リシモ古キ御事ニテ一度皇太神ヲ合祭シ奉テハ之ヲ主神ト仰キ奉ルハ尊神ノ衷情二出シモノニテ敢テ祭神ヲ左右セシモノニハ非ルへシ」と合理的に解釈している。古代の総社宮での重陽祭では、幣を奉納する近郷八社の一つであったという。
 天文8年(1539)に焼失したが、慶長9年(1604)春、森忠政が築城に先立ち、津山の鎮守として徳守神社を再建、同年内に落成して遷宮され、新田村において70石の社領を寄附された。2代藩主森長継は寛永14年(1637)さらに10石を加増し、寛文4年(1664)に社殿を新築した。現在の本殿・釣殿・拝殿がこれに当たる。