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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,920件の記事が見つかりました。

出雲街道と勝間田宿

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 出雲街道は出雲往来ともよばれ、古代には畿内から山陽道を通り播磨から出雲を結ぶ官道として機能していました。勝間田には古代の勝田郡衙が置かれ、古来人々や文物が行きかう交通の要衝として栄えていました。
 江戸時代に入ると、出雲松江藩や美作勝山藩・津山藩などの諸大名が江戸への参勤交代の交通路とするため、出雲街道が本格的に整備されていきます。それにともなって、各地に宿泊や人馬の継立てを行う宿場が設置されていきます。
 勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして発展しました。勝間田宿には、大名や供のものが泊まった旅舎が二つあり、主に津山藩主が宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主、宮家・勅使が宿泊した木村本陣がありました。

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美作の国 [歴史]

[歴史]
 古代から江戸時代に至る岡山県北東部の行政区画、東は播磨、西は備中、南は備前、北は因幡、伯耆の諸国に接する。「続日本記」和銅6年(713)4月3日の条に、備前国の、英多、勝田、苫田、久米、大庭、真嶋(島)の6郡を割いて、初めて美作国を置いたとある。美作は、「和名抄」では、<美萬佐加>と読む。国衙(こくが)は苫田郡(とまだ)内(現津山市総社)、国分寺は勝田郡(現津山市国分寺)に置かれた。863年(貞観5)苫田郡を苫西、苫東と分割する。奈良時代の終わりから平安、鎌倉時代にかけて多くの荘園が成立した。神護寺領佐良庄をはじめ、稲岡庄、梶並庄、倭文庄(しとりの)、河内庄、英多保、林野保、真島庄などが有名。武士団としては"菅家党"が有名。平安末期には稲岡庄で法然が誕生した。

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千年寺の冬と椿の花

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 長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した千年寺に椿の花を求めて行って来ました。現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は 鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(詳しくは2009年の取材をご覧ください) 2015年12月28日撮影

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本光寺と椿の花(津山市一宮)

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2015年12月7日に本光寺を訪問してきました。ここの風景は今にも長継公が出て来そうでロマンを感じる所でとても好きです。その長継公(長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。)は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物だったのです。(2009年に取材したのに詳しく描いておりますのでどうぞ)

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2016年1月9日 津山武道学園稽古始め

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 津山市体育協会津山武道学園は、2016年1月9日に津山総合体育館にて稽古始を行いました。津山武道学園は武道の修練を通して,何事にもくじけない強い心身を培うとともに豊な人間性を育むことを目的としています。この稽古始は、今後当地において益々武道を隆盛させるために,武道諸団体が一堂に会して練磨し,より一層の連携を深めるとともに総合武道館の建設促進を目的に毎年開催されています。
参加武道団体・津山合気道連盟,津山空手道連盟,津山弓道連盟,津山剣道連盟,津山柔道連盟,津山少林寺拳法連盟,津山相撲連盟です。(2014年の様子はこちらから)

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八出天満宮のとんど焼き

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2016年1月11日、八出天満宮のとんど焼きに行って来ました。

「とんど焼き」とは小正月の行事で、正月の松飾り・しめなわ・書き初めなどを各家から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、日本全国に伝わるお正月の火祭り行事です。
 境内で、正月飾りなど燃やし、残り火で、柳の木や細い竹にさした団子、あるいは餅を焼 いて食べるという内容で1月15日前後に各地で行われます。
 どんど焼きの火にあたったり、焼いた団子を食べれば、その1年間健康でいられるなどの言い伝えもあり、無病息災・五穀豊穣を祈る民間伝承行事です。(文参考:どんど焼き)

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後醍醐天皇御駐輩伝説地(津山市種)

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後醍醐天皇御駐輩伝説地(2015年11月11日撮影)
元弘2年(1332年)3月鎌倉幕府打倒の計画に失敗した後醍醐天皇は、幕府の武士らに護送されて隠岐島に配流された。天皇の一行は京都を発って、山陽道を経て、姫路付近を出雲街道にとり、杉坂峠を越えて、美作に入った。そこにしばらく滞在したのち雲清寺というところに至った。この雲清寺が、ここより東方、約300メートルに碑があるあたりと考えられている。その東約100メートルには、昔からいかなる千害にも絶えることのない清水があり、天皇はそこで顔を洗ったと伝えられる。今も地元の人々は洗顔清水と読んでいる。再び輩の人となった天皇は、この峠を越えるとき遠望する山が古歌に名高い久米のさら山と聞き、自らして筆をとって詩を
 聞きをきし久米のさら山越えゆかん
  道とはかねて思ひやはせし  と詠んだ
 こののち、天皇は院庄に入って、児島高徳のひそかなはげましを受けた。そして再起を期しつつ隠岐に旅立っていった。この非運の天皇をしのび、大正15年土地の人々によって、顕彰碑が建てられ、先の歌を刻み、後醍醐天皇御駐輩跡として後世に譲り伝えている。
 平成21年11月8日 さら山時代祭実行委員会 種町内会御駐連場(文:案内板より)

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もみじが美しい大雄寺です。

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 百丈山 大雄寺は慶長の末(西暦1610年代前半)に、森家の重臣 原家の親族である伝室玄悦和尚が開山となり創建されたお寺です。四季を通してとても綺麗な参道があり、城西地区のちょっとしたスポットです。(2015年12月7日撮影)前回の取材はこちらから

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洗顔清水(後醍醐天皇伝説地)(種)

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洗顔清水(後醍醐天皇伝説地)
 元弘2年(1332)3月後醍醐天皇は鎌倉幕府討滅計画の失敗により隠岐島に配流された。その際、美作通過の行程について「太平記」や「増鏡」によると、播磨との国境杉阪から雲清寺、久米のさら山をへて院庄に入ったと推定される。
 このうち雲清寺の所在については直接のてがかりがなく、配流の具体的な道筋はなく不明とされてきた。そこで、幕末の国学者平賀元義らは、久米のさら山を詠んだ後醍醐天皇の歌「聞きをきし久米のさら山越えゆかん道とはかねて思ひやはせし」の「越えゆかん」の句などから、天皇の配流の道筋を押淵から種をへて皿に至る山越えの古道とした。そして雲清寺をここより西約100メートルの多祢神社東の峠付近と考証した。その途中のこの場所には、昔からいかなるひでりにも絶えることのない清水があり、天皇はここで顔を洗ったと伝えられる。今も地元の人々は洗顔清水と呼び、後世に守り伝えている。
平成10年2月 津山市 (津山市案内板より)(2015年11月11日撮影)

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