取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「お墓」で検索した結果,64件の記事が見つかりました。

【津山人】 米井源治郎之碑(下高倉東上塩)

石.jpg

麒麟ビールの初代社長 米井源治郎之碑(2013年4月10日取材)

 上塩池西側の米井澄近宅沿いに「米井源次郎之碑」がある。蘭学者で医者の仁木永祐が籾保村に開いた籾山校に学び、上京して慶應義塾を卒業後、財界人として明治時代の近代国家確立の一翼を担った米井源治郎の功績を称えるために、生家の当主澄近氏が平成6年(1994)3月に建立した碑である。


 文久元年9月16日下高倉東1723番地に米井仲平の次男として誕生、蘭学者 仁木永祐氏の籾山校に学ぶ。後津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業。後 磯野商店の大番頭として活躍。三菱銀行岩崎久彌氏に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイ等の社長を努めると共に明治屋(旧磯野商店)二代目社長をも努めた。
 行年59才 葬儀には、天台宗の大僧正をはじめ多くの政界人や財界人が参列した。(文:米井源次郎之碑より)

【津山人】 米井源治郎之碑(下高倉東上塩)の続きを読む

2013年本行寺(ほんぎょうじ)の枝垂桜・ひがん桜(西寺町)

hon5.jpg

本行寺(ほんぎょうじ)のしだれざくらとひがん桜(2013年3月28日取材) 

本行寺は、慶長9年津山市街の成るに及んで南新座に移り、更に今から約367年前の元和2年に現在の西寺町に移ってきた。境内墓地には「人間裁判」の故・朝日茂氏のお墓がある。(詳しくはこちらで)

2013年本行寺(ほんぎょうじ)の枝垂桜・ひがん桜(西寺町)の続きを読む

竹本山 医王寺(津山市加茂町青柳)

医王寺.jpg

 当社は青柳にあって、竹本山 医王寺と号し醍醐派真言宗に属する当山派山伏寺である。本尊は大日如来である。

 開山は不明である。もと字寺山にあったが、文永二十一年(1274)に僧聖覚房が中腹に移建し、さらに天文二十一年(1552)に矢筈城主草苅衡継が現在地に移したと伝えられる(『苫田郡誌』)。本尊大日如来は、像長一尺の一本造りである。寺の行事は、正月二十八日には、部落ひとびとが本堂で大師講を行っている。2012.9.20取材(文:加茂町史より)

竹本山 医王寺(津山市加茂町青柳)の続きを読む

福井 薬師院猿の湯伝承の薬師様

daishi.jpg
 福井八幡様の南側の麓から、勝央町にぬける道(工門勝央線)が通っている。その道に入ってなだらかな登り坂を数百mも行かないうちに、いわゆる火のかま古墳がある。その古墳から道路をへだてた東側の丘に、粗末な方1m余で背丈ほどの高さのお堂がある。なお、このすぐ近くには、広野小の初代校長松本譲先生のお墓もある。
 このお堂に、古くて塗りのはげた高さ30~40cmの仏様=お薬師様が安置されている。さらにその横には、年月を経て朽ち果て虫食い状態で頭と胴だけの、おそらくはその先代の仏様が並びおかれている。
 この薬師様は、火のかま古墳の下の谷筋より現在地に移されてはいるが、平安末期、新宮城の栄えていた当時、温泉の湧き出た薬師院の湯ゆかりの伝承をもつ仏様である。新宮山木下伝記によると、およそ次のような記述がある。
 新宮城主二代道衡(みちひら)の時、康平元年(1058年)この丘陵のすそ谷筋で薬師院というお堂を開いていた海常坊が、読経のさなか庭で湯浴みの音がするので、のぞいて見ると、大きな老猿が泉水に入っていた。驚いたことには、湯気が立ち昇っていて水が温かくなっており、泉水に湯が湧き出ていることを知った。海常坊は、直ちに城主に願い出、薬師院猿の湯という湯治場(とうじば)を設けることにした。やがて、傷も癒え、難病も平癒する薬湯のうわさが広まり、近郷近在から沢山の人々が入浴するようになって、大変な繁盛を迎えた。この結果、多くの湯銭かわりの賽銭賽米が貯えられることになった。その貯えは、海常坊(みたちぼう)の願いでにより、福井正伝寺に五重塔建立の資金となったと言われている。猿の湯は、その後74年間も続いて湧き出ていたが、長承元年(1132年)4月、他国の武士と浪人者が湯船で喧嘩・殺傷事件を起こしたため、湯の入れ替えを試みたところ、これを機として湯は出なくなり、温泉が途絶えたそうである。
(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年6月28日取材

福井 薬師院猿の湯伝承の薬師様の続きを読む

河面 今も祀られている戦死武者の墓

yoshida12.jpg 
 河面下山地区の丘陵部は、かって武家時代の合戦場であった。尾根伝いに平家ゆかりの城であった新宮城につながっていること、周辺の見通しのよい高台であること、東西の真加部街道や南北の加茂谷に通じる道の要衝であったことなどによって、この周辺が勢力争いの場となって合戦が行われたと考えられる。(2012年1月28日取材)

河面 今も祀られている戦死武者の墓の続きを読む

田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑)

kame5.jpg
田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑) 2012年1月7日取材
 中村周介は宇田川榕庵が津山藩医頃、医学と算聖の関 髙和髙弟青木正蔵より和算を修め田熊に帰り医業を継ぎ、また多数の和算の門人を持った。
 中でも甥嘉芽市は幼少より算用に通じ人々に「天童」といわれ、周介の教えに熱中、寝食を忘れて勉学、15、6歳で田熊流とさえいわれる和算の奥義を窮めることができた。(周介72才)
 文化4年、亀田代官が周介翁を訪ね「堀坂村の井堰が大雨毎に流れ、水の取り入れ口が洪水の進入路となり百姓達は、泣いて訴えます。よい設計はないでしょうか?」と頼まれました。
 周介は堀坂の墜道堀盤工事のことを嘉芽市に説明し、16才の天童少年に全部を頼り切った。周介と嘉芽市の設計施行の暗渠堀盤は独創適確な妙案であった。簡素な測量器、曲尺や夜は提灯利用、駆使し和算のうりょくの全力を絞り切って延長百米の大墜道を鎚とタガワで両側から掘って約1年で貫通させた。一当時は日本初の工法といわれたー

 周介亡き後嘉芽市は、天下に師を求め、江戸に上り幕府天文方御書物奉公、高橋作左衛門に師事し天文能史の奉行高橋作左衛門は、シーボルトの持つ「世界周航記」「ナポレオン戦記」ほしさに、国外出禁の伊能忠敬の蝦夷測量図と交換した。このことが間宮林蔵よりもれ作左衛門景保先生関係者は、極刑に及び門人嘉芽市も幕府の隠密をさけ、死地を脱す。年25歳帰省後は、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治11年10月10日没す73歳。(文貴)下山陸治

田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑)の続きを読む

萬福寺(高野本郷)と堀内三郎右衛門

mannpukuji.jpg
萬福寺(津山市高野本郷)2012.1.14日取材
本部から「92歳の本当に困っている老祖を助けてあげてほしい。」と言われ、33年前にご夫婦で来られたそうです。「このお寺は旧市内から分寺してここに来られたのだと教えてもらいましたが、このお寺の詳細は分かりません。」とおっしゃっておられました。万福寺では、堀内三郎右衛門のお墓があって、小中学生が授業で見学に来られるそうです。墓には「堀内三郎右衛門 君碑 法学博士 平沼 淑郎(よしろう)」と刻んである。今は檀家の人たちと堀内三郎右衛門一族のお墓を大切にお祀りしておられるそうです。(この他、堀内三郎右衛門の妻光井傳(でん)が元禄13年に奉納した燈籠が高倉神社にあります。また、農民の窮状を救おうと、命をかけて強訴におよんだ指導者8人の霊もいわゆる千人塚で供養回向されている。田中角栄氏が書いた義民の碑も高倉にある。)


萬福寺(高野本郷)と堀内三郎右衛門の続きを読む

城東竹灯籠年越しまつり2011~2012

017.jpg
2011年大晦日に大信寺において、昨年に引き続き「城東竹灯籠年越しまつり」が開催されました。このイベントは地区の方々の手作りの灯籠が並べられ、古い町並みを温かい灯りで浮かび上がらせる幻想的なイベントです。(昨年の様子はこちらから
また、大信寺には、放浪の陶工『浅本鶴山』のお墓があります。浅本鶴山は放浪の陶工、南蛮焼の名手として高く評価されています。大信寺には自然石に「陶工」と刻んだユニークな墓があります。また、本堂の扁額が「広開浄土門」と陶器製の文字で作られているのも彼の手によります。

鶴山は明治18年(1885)津山で生まれ、2歳で陶工の浅本房吉の養子になりました。放浪、修業の後、昭和11年頃津山に帰り作陶し多くの作品を残しました。

城東竹灯籠年越しまつり2011~2012の続きを読む

映画「ホルモン女」撮影風景【水島食堂編】

8kamo13.jpg

▲水島食堂にて「ホルモン女」の撮影中!

「雪」が降っている中での撮影です。スタッフのみなさんは勿論、みんな必死!寒かったぁ~!

沖縄国際映画祭 津山編 2011年2月14日(月)「ホルモン女」水島食堂撮影風景

映画「ホルモン女」撮影風景【水島食堂編】の続きを読む