幻の佐平焼
浮田佐平(1867年~1939年)は、製糸業をはじめとして、植林製材、三椏の栽培、奥津峡の観光開発など、多彩な事業をな した実業家でした。五十才を過ぎた佐平は、郷土の特産品を増やすため、各地から陶工を呼び寄せて大規模な窯を築き、最高の焼き物づくりに挑戦しました。こ れが、佐平焼と呼ばれている焼き物です。難しい結晶釉にこだわった佐平焼は、美しく光る細かな模様をその特徴とします。(文:津山郷土博物館 特別展「佐平焼―結晶釉の美と特産品創出―」より抜粋)
浮田佐平(1867年~1939年)は、製糸業をはじめとして、植林製材、三椏の栽培、奥津峡の観光開発など、多彩な事業をな した実業家でした。五十才を過ぎた佐平は、郷土の特産品を増やすため、各地から陶工を呼び寄せて大規模な窯を築き、最高の焼き物づくりに挑戦しました。こ れが、佐平焼と呼ばれている焼き物です。難しい結晶釉にこだわった佐平焼は、美しく光る細かな模様をその特徴とします。(文:津山郷土博物館 特別展「佐平焼―結晶釉の美と特産品創出―」より抜粋)
曲水の宴《動画1》《竹内津山観光協会長挨拶》《キャンベルさんのお話》《動画2》
流觴曲水ともいう。「觴」とは盃のこと。陰暦の3月上巳の日や3月3日に開催され、緩やかに蛇行しながら流れる水の岸辺に座して、流れ来る盃が自分の前に到達するまでに詩歌を詠ずるという風流な行事で、古代中国にその発祥があるという。水辺で行われていた禊ぎに関連する行事から、遊興の催事へと変化したといわれる。
中国の事例では「衆楽雅藻」の序文でも「永和之蘭亭」と称されている如く、永和9年(353)3月3日に開催された曲水宴が、後に王羲之の書作品「蘭亭序」により広く知られることになった。
日本にも古くから伝わっていたらしく『日本書紀』や『万葉集』にも曲水の宴を行ったことが記載されている。
明治3年(1870)に衆楽園で行われた曲水の宴では、詩を成した者は盃を取り、できなければ飲めないという定めであったが、流水には盃だけではなく、こなもちや酒の肴も流されており、鴎の群れが波に揺れる様であり、また落ち葉が流れ下っていく様であったと描写されている。(文:公益社団法人津山市観光協会チラシより抜粋)
津山藩医・久原家
久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。
明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人
(2014年7月30日取材)
美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)
上段左端が行列の先頭です。上段には、本行列の5日前に出発する宿割隊がいます。
(2014.8.6許可済み画像提供:津山郷土博物館)←詳しくはここをみてね!
津山松平藩第7代藩主斉孝(なりたか)が参勤交代により、津山へ帰国する行列を描いた絵図である。明治17年(1884)製作。襖仕立てで7枚からなり、各縦91㎝、横188㎝。
津山松平藩は、元禄11年(1698)の美作入国当初は10万石であったが、享保11年(1726)、第2代藩主の夭折により5万石に削減された。その 後、文化14年(1817)、第11代将軍徳川家斉(いえなり)の子銀之助(後の第8代藩主斉民(なりたみ))を養子に迎え、宿願の10万石復帰を果たし た。
冑
享和3年(1803) 銘「享和三年二月日」 「明珎宗尚」 津山藩主松平家伝来 個人蔵
津山郷土博物館の3階に展示してあるこの兜ですが、見れば見るほど豪華な飾りです。この正面に飾られてあるのは龍?鯱のようでもあり、何の象徴なんでしょう?また、両耳のところには葵の紋が今でも黄金に輝いています。一見の価値あり。(2014.7.31取材)
岡山県指定重要文化財
熊毛槍
江戸時代後期
言うまでもなく槍は兵器であり、戦国時代までは装飾の少ない実用本位のものが用いられたと思われるが、徳川将軍家を頂点とする幕藩体制が確立して戦乱が途絶えると、武芸としての槍術鍛錬以外には使う機会がなくなり、その持ち主である武士の身分・格式を表す標識・象徴とみなされ、見せるものへと変化して装飾化が進行、同時に槍の本数や行列中での位置の差異などによる家格の序列化も行われるに至った。槍を立てて持ち歩く場合、最も高い地位にあってよく目立つのが鞘であるが、特に諸大名は趣向を凝らした鞘を作らせ、公式の外出時には行列に加えて高々と誇らしげに掲げたたのである。2014.7.31取材
かつて江戸城内にあった東照宮を飾った豪華な御簾
紅葉山東照宮 御簾
享保21年(1736)以前の作 竹・緞子・金工の組合せ
紅葉山東照宮の神前に掛けられていた御簾。簾の中でも高級なものは、特別に御簾と呼びます。細い竹ひごを編み、周囲が緞子(地が厚くて文様をあしらった光沢のある絹織物)でふちどられ、三葉葵紋の金具や織模様が多数あります。上部には紐の長い房が2か所に取り付けられ、その紐には鉤(簾を巻き上げた時に引っ掛けて止めておく金具)が付いています。最上部には、中央の日輪をはさんで左右に龍・麒麟・天馬・獅子の飾り金具が配置され、全体として非常に豪華な作りです。初代将軍であり「神君」とも呼ばれて徳川家の守り神とされた家康を祀る社殿を飾るのにふさわしい仕様とデザインで、かつての徳川将軍家の絶大な権威を思い起こさせます。
付属の由緒書によると、享保21年(1736)に浅草寺伝法院を経て美作一宮の中山神社神職美土路家が拝領し、同家に伝来したものです。(文:津山郷土博物館より)2014.7.31取材
津山郷土博物館や山田養蜂場等にも作品がある鏡野町生まれの彫刻家・桜井敏生さん (72歳)と、津山生まれでパリ在住の画家・桜井由子さん(42歳)の初の親子展(9月14日(土)~10月27日(日))が、10月27日終了。「桜井敏生(彫刻)、桜井由子(絵画)二人展」(2013年10月27日取材)