おもてなしイベント(文化センター会場)
2017年7月22日のB'z津山公演のおもてなし会場のご案内です。
「公演当日は、混雑が予想されますので、津山市内でご近所の方はなるべく、乗り合わせや徒歩で移動をお願いします。」との要望がありました。また、津山文化センター近くでも様々なイベントもありますので併せてご案内してみますね。
2017年7月22日のB'z津山公演のおもてなし会場のご案内です。
「公演当日は、混雑が予想されますので、津山市内でご近所の方はなるべく、乗り合わせや徒歩で移動をお願いします。」との要望がありました。また、津山文化センター近くでも様々なイベントもありますので併せてご案内してみますね。
第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」
明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
(掲載されている写真・文章等の著作権は津山瓦版または情報提供者に帰属し、一切の無断転載を禁じます。)
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現在は、千代稲荷神社の境内に移されているこの社は以前、津山郷土博物館裏の城の石垣に貼りつくように建っていた。この豊川稲荷を勧請したのは、もと津山藩の家老であった山田(ようだ〉家といわれている。
山田家の後、美作製紙から昭和9年には旧津山市庁舎(現津山郷土博物館)と替わった。
昭和10年に水道疑獄が起き課長が議場で倒れてからは、屋敷の守り神である豊川|稲荷が手厚く祭相された。
所在:津山市山下82 千代稲荷神社内 祭神:豊武大明神、末廣大明神、白玉大明神 創建:不詳 祭礼:6/中旬
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗より)(2016年11月30日撮影)
パレオパラドキシアは哺乳類束柱目に分類される生物で、今から約1500万年前に生きていたと考えられています。当時の津山市は亜熱帯の温暖な気候で、浅瀬が広がる海でした。パレオパラドキシアはその海辺で、やわらかい海草などを食べていたと考えられています。
束柱目の名前の由来はその臼歯にあります。よくみると鉛筆くらいの柱を束ねたような形をしています。
津山郷土博物館で展示中のパレオパラドキシアの骨格標本は昭和57年9月津山市上田邑の工事現場で当時の中学3年生が発見しました。パレオパラドキシアの化石は日本とアメリカだけで発見されている珍しいものです。全身骨格標本は全国的にも珍しく、県内では津山郷土博物館だけが展示公開しています。(文:津山市HPより抜粋)(2016年10月16日撮影)
2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、本源寺(森家墓所)を拝見してきました。
本源寺(森家墓所)
本源寺の由緒:山号は東海山、臨済宗東海派。元は足利尊氏が創建した神戸村の萬松山安国寺。森忠政の美作入国時に小田中に移転。慶長12年(1607)忠政夫人の於岩が没すると西今町の北方に埋葬され、ここへ再び安国寺を移転し龍雲寺と改称、森家から200石の寄進を受けて菩提所となり、元和年間に山号が東海と改められた。寛永11年(1634)に京都で急逝した忠政は大徳寺三玄院に葬られたが、津山の龍雲寺にも供養墓が建立された。天和3年(1683)忠政の50回忌に当たり、法名にちなみ本源寺と改称。(矢吹正則『津山誌』参照)
西寺町・渓花院跡(新高倉稲荷神社境内とその南東)
寺院としての渓花院の由緒:臨済宗東海派。
渓花院の没後、元和初年に夫の関成次が亡き妻の菩提を弔うため、天倫を開祖として墓所の側に堂宇を建立。承応元年(1652)大名の待遇を得た次男の関長政により装飾が加えられ、長男で藩主の長継からは10人扶持を寄進。隠元が「渓花院」の3文字を大書した銅製の扁額もあったという。森家改易で関家が新見に移ると衰退し、無住となる。明治17年(1884)の時点で、境内は東西17間(約30m)・南北14間半(約20m)。明治末期に今の倉敷市連島辺りに移転したらしく、弥勒菩薩を本尊として本堂・庫裏・土蔵など630坪の境域と信徒300人を有し、岡山の国清水の末寺として亀島に渓花院という臨済宗妙心寺派の寺院が存在したとの記録があるが、その後に廃絶した模様で、その詳細は不明である。(矢吹正則『津山誌』・本源寺萬愚誌「森関宗廟由来記」・『浅口郡誌』参照)(2015年12月6日津山郷土博物館第107回文化財めぐり)
2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、宗永寺(本堂内・森家墓所)を拝見してきました。
宗永寺の由緒:山号は法源山、臨済宗東海派。長継が生母・渓花院の供養のため創建。家臣の市村重政・各務元正を奉行として堂宇を建立させ、明暦2年(1656)落成。方丈・書院・庫裏・廊下・中門・外門など、いずれも美麗を極めたという。渓花院の住持・正伝を開祖とし、渓花院の法名にちなんで宗永寺と命名、寺領として150石を寄進。森家の改易後は徐々に衰退し、天保年間に火災に遭うなどして、伽羅は昔の規模をとどめていないが、幕末に田中諦堂が住職となり、堂宇の修繕に努めた。明治17年(1884)の時点で境内は東西19間(約34m)・南北49間(約88m)あり、現状よりも北に大きく広がっていた。現在の本堂はかつて観音堂で、33体の観音像のほか、渓花院をはじめとする森家一門の位牌を安置する。(矢吹正則『津山誌』ほか参照)(文:津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐりより)
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浮田佐平(1867年~1939年)は、製糸業をはじめとして、植林製材、三椏の栽培、奥津峡の観光開発など、多彩な事業をな した実業家でした。五十才を過ぎた佐平は、郷土の特産品を増やすため、各地から陶工を呼び寄せて大規模な窯を築き、最高の焼き物づくりに挑戦しました。こ れが、佐平焼と呼ばれている焼き物です。難しい結晶釉にこだわった佐平焼は、美しく光る細かな模様をその特徴とします。(文:津山郷土博物館 特別展「佐平焼―結晶釉の美と特産品創出―」より抜粋)
曲水の宴《動画1》《竹内津山観光協会長挨拶》《キャンベルさんのお話》《動画2》
流觴曲水ともいう。「觴」とは盃のこと。陰暦の3月上巳の日や3月3日に開催され、緩やかに蛇行しながら流れる水の岸辺に座して、流れ来る盃が自分の前に到達するまでに詩歌を詠ずるという風流な行事で、古代中国にその発祥があるという。水辺で行われていた禊ぎに関連する行事から、遊興の催事へと変化したといわれる。
中国の事例では「衆楽雅藻」の序文でも「永和之蘭亭」と称されている如く、永和9年(353)3月3日に開催された曲水宴が、後に王羲之の書作品「蘭亭序」により広く知られることになった。
日本にも古くから伝わっていたらしく『日本書紀』や『万葉集』にも曲水の宴を行ったことが記載されている。
明治3年(1870)に衆楽園で行われた曲水の宴では、詩を成した者は盃を取り、できなければ飲めないという定めであったが、流水には盃だけではなく、こなもちや酒の肴も流されており、鴎の群れが波に揺れる様であり、また落ち葉が流れ下っていく様であったと描写されている。(文:公益社団法人津山市観光協会チラシより抜粋)