駅前にガレージアートが描かれていた。
津山駅前の商店街がリニューアル前に、シャッターが閉まったガレージに描かれた絵で、山田美那子さんが描いた絵です。いずれももうすぐなくなるであろうもったいないと撮影しておいたものです。(2008年3月8日撮影)
津山駅前の商店街がリニューアル前に、シャッターが閉まったガレージに描かれた絵で、山田美那子さんが描いた絵です。いずれももうすぐなくなるであろうもったいないと撮影しておいたものです。(2008年3月8日撮影)
明宝会館前の広場が出来上がっている。明宝会館は屋上の一部は未完成。
映画は「暗夜行路」・時期:昭和34年(1959)
写真は2022年1月8日、津山駅前の移り変わりを、長年駅前周辺の商店街活性化のために尽力されたスタジオK2、エイコ美容室などを展開されている(有)プランニングオフィスK2会長の河部克己さんに教えて頂こうとお尋ねしたところ、河部さんが大切に保管しておられた貴重な写真(約62年前)を見せて頂き、懐かしくもあり、嬉しくもありで感動しましたので、ここに記念として載せて広くみなさんに紹介したいと思います。懐かしい人には懐かしく、そうでない人にはそれなりに。
2021年12月18日の津山城(鶴山公園)の雪景色
今年12月に入り初めての雪が降り、津山市内は一面が真っ白になりました。午前9時ごろに鶴山公園の雪景色を撮ろうと出かけてきました。丁度、大阪からの観光客の女性に会い「津山に来たらこんなに雪が降っているのでびっくりしました。普通の靴で登れるか心配でしたが、本丸から津山が眺められてよかった!」とのことでした。この日はソシオ一番街でもイベントがあり、大勢の方が街中に集っておられました。
蒜山インター近くの「道の駅 風の家」裏のコスモス畑が綺麗だったので撮ってきました。
2021年10月23日 少し曇り空だったのですが、真庭市蒜山までドライブしてきました。その途中にある「道の駅 風の家」で休憩をしようという事になり、立ち寄ってきました。ここは蒜山大根をはじめ、旬の野菜が安くて買えるという事で知られています。その風の家の裏の方へとぞろぞろ向かう買い物客に着いていくと、可愛く咲いているコスモスに出会いました。
2021年9月26日に鏡野町を舞台に開催されるアートイベント「第3回OKUTSU芸術祭」2021年9月11日(土)~11月21日(日)に行ってきました。 この芸術祭は作州地域ゆかりの若手作家さんの作品が展示されていて毎年、楽しませていただいています。さっそく立ち寄った道の駅奥津温泉では、手ぬぐいアート作品が所狭しと飾られて秋の空にたなびいていました。
鏡野町観光協会、道の駅奥津温泉、石庭遊園地、旧武本名産店、池田屋河鹿園、かがみの近代美術館、奥津公民館、みずの郷奥津湖、国民宿舎いつき、そば処秀峰、宝樹寺、鏡野町ペスタロッチ館、富総合福祉センターほか TEL.086-52-0722(かがみの近代美術館)
※日程、料金など変更されている場合がありますので、お出かけの際は問い合わせ先にご確認ください。
上記の写真は、田中義男さんのアルバムから抜き出したものです。当時の田町付近でしょうか?
義男さんの写真のコメントには当時の様子がこまめに書いてありました。また、お兄さんの田中孝夫さんの遺品の中にも興味深い写真があり、遺族の承諾を得て紹介してみます。
2021年7月24日(土)の炎天下の中で行われた、JR津山線の2両編成の列車ノスタルジートレイン「美作国やまもり号」サプライズ企画で、列車内でパフォーマンスするおもてなし隊として「作州忍者鶴丸隊」が参上。
作州忍者鶴山隊初めての津山城外活動で、岡山県のJR亀甲駅から津山駅までの区間、九字をきったり、忍者クイズをしたり、駅のステージでパフォーマンスをしたりとお迎えからお見送りまで、忍者らしく活動し、沢山のお客さんに喜んでもらえて大成功のイベントでした。
克丸隊長は「作州忍者鶴山隊の特色は「くノ一忍者」の方が多いのも特徴です。これからも県北の魅力をもっともっと知ってもらう為に活動を増やしてまいりますので見かけましたらお声がけください。」とのこと。「津山瓦版」も応援していますよ~。
この付近には、かつて山田方谷(備中松山藩士・漢学者1805~1877)居宅があり、川沿いには十数本の松が並んでいて、対岸へは専用の渡し舟で渡っていました。方谷は藩政改革を成し遂げた後、領内の守備と耕作地開拓のため藩士を移住させる「在宅土着」の理念を実行しようと、藩主に願い出て安政6年(1859)に備中松山城下からここに移り住みました。月の内、半分は藩の仕事で城下に出向き、残りは対岸の山などを開墾しました。また、この年、長岡藩士の河井継之助(1827~1868)が方谷の教えを請いにこの地を訪れています。
方谷は政治から手を引いた、明治元年(1868)私塾・長瀬塾を開きました。彼に学びたい人々が次々に集まり、塾では学問と同時に人間教育が実践されました。当時の名簿には63人の名前が記載されていますが、実際にはもっと多くの塾生が学んでいたといわれています。
学規(塾のきまり)も5条定められていました。要約すると次のようになります。
1,1日と5の付く日は休みとする。しかし、起床・消灯は平日と同じにする。
2,帰省および遠出のほかは外泊してはいけない。理由があって帰れないときは報告する。
3,毎朝、先祖・父母に向かってあいさつを欠かさない。これを怠るものは退学を命ずる。
4,秋冬にはしっかり読書する。
5,寮内を清潔にし、傘、はき物などよく整頓し、決して他人のものは使用しない。
高梁市教育委員会
ここは、備中松山藩6代藩主板倉勝職(1803~1849)が、別邸として建てた御茶屋跡です。隣接して水車があったことから通称「水車」と呼ばれました。平成23年(2011)3月、高梁市教育委員会が実施した遺構調査で、水車跡の石組みが発掘され「水車」の呼称の裏付けとなりました。
幕末に藩政改革をすすめていた山田方谷(1805~1877)は元締役を辞した後、安政6年(1859)4月、長瀬(現・JR伯備線方谷駅)に住居を移しましたが、年寄役助勤として引き続き藩政に参画することとなったため、当時、利用のなかったこの「水車」を城下滞在時の宿舎としていました。
同年7月、越後長岡藩士河合継之助(1827~1868)が報告の教えを請いに訪れた時はじめは武家屋敷花屋(高梁市鍛治町)に宿泊しますが、8月3日からここ「水車」に移り、長瀬とを往復しながら従学し、方谷の門人進鴻渓(1821~1884)、三島中州(1830~1919)などとの交流もありました。また、周防岩国藩の儒学者東澤瀉(1832~1891)もここに宿泊し、方谷と交流し数日滞在しています。
現在の施設は、御茶屋跡に唯一残されていた建造物を、平成18年度(2006年度)に高梁方谷会・高橋地域まちづくり推進委員会・(社)日本建築学会中国支部岡山支所が調査し、これに基づいて平成24年度(2012年度)に水車とともに整備したものです。
落成記念:平成25年6月 高梁市(文:現地案内板より転載)(2021年2月10日撮影)
田中義男 明治42年2月27日東京芝区生れ、父田中治平が亡くなってから、2年後(義男4歳の時)家族は津山に帰って来た。その後、津山中学を卒業、東京外国語大学の英文科を経て、台湾銀行(当時は日本の領土)に入社するが台湾の気候が合わず、学生時代に患った結核が再発、津山に帰ってきて療養後に亡くなった。義男は子供のころから熱心に神傳流を続けていて指導者の資格も取得し、大学が休みになると帰ってきては子ども達を指導をしていた。