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取材記事内を検索ワード「神社」で検索した結果,761件の記事が見つかりました。

上山神社(美作市上山)

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御祭神(大足比古大神、大足比女大神、譽田別大神、伊邪那美大神、菅原大神)
由緒
本社は美作国古社百十二社の其一にして天平年間以前の勧請なり、當神祭神 大足之神は民福を計りて此地に池を築かしめ給ひしに依りその御功績を永遠に伝えんがため御名大足を池名とし本社に勧請せしものなり 故に中古迄は社名を、大足宮と申し戦国時代に至り諸国の神社兵火に懼るに依り其災を免れんとして武人の尊崇せし所の八幡宮と改稱し、明治二年現社名に改む 往古より社領二反六畝五歩を有せしが慶長十三年浮田中納言のため没収せられる。

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2013年 英田上山神社の夏祭り

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美作市にある上山神社で2013年8月11日(日)午後6時より、上山集楽の復活第2回目の夏祭りがありました。今年の夏祭りは、福島からサマースクールで来ていたの子ども達19名と親御さん22名を招待した夏祭りになりました。最後は参加者全員で願い事とともにスカイランタンを上げました。炎天下の中準備をすすめて来られたみなさまご苦労様でした。2012年の様子

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朝吉神社(上村字王子屋敷)

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  「加茂町史」によれば、もとは若王子権現と唱え、勝加茂西上(現上村)・勝加茂東原(現原)・勝加茂東坂上(現坂上)の三ヶ村の産土神で、文暦元年創建と伝えられ、明治のはじめにいまの社号に改めました。神社明細帳や明治以降の文献では祭神を下照姫命としています。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年10月25日取材

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野神神社(津山市沼)

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2013年4月25日取材

 柳野神大神ノ勘請セランタル年月詳ナラズト雖モ和名抄ニ美作七郡六十餘郷トアリ是レ地名ノ書物ニ記サレタル始メナリトス此ノ地ノ地主ノ神ニ野神大神アリ 地名ヲ野神谷ト云ヒ初メシモ其ノ頃ノコトナリ 古老ノ口碑ニ依レバ當社ハ昔ヨリ社地宏壮ニシテ神威尤モ偉大ナリシガ永禄ノ末宇喜多黄門美作國内ノ社地ヲ没 収セシコトアリシ時

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斎神社(津山市沼)

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主祭神    稚日?尊 天宇受売命 倭姫命
由緒沿革  祟神天皇の御代に勧請したという。本神社をイツキと称するのは、織部、勝部、祝部に縁の深い弓月の君、即ち融通王をその部族が奉祀したものであるからともいう。国司が総社を建立して以来、総社に神幸せられて奉幣に預かったという。森、松平侯の別邸が指呼の間にあって、崇敬も厚く、祭祀日に奉納があった。

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大田神社(津山市大田)

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 由緒並びに沿革
此の社は大田神社と号し鎮座の地を土居内と稱し創立年紀明記を存ぜず 往昔土居内大明神と稱へ来たりしを明治6年大田神社と改稱し村社に列格す 当社は美作一宮の住人関勅解由(勘解由は藤原氏にて大職の儀の後胤田原藤太郷12代の胤と伝ふものなり)は敬神の念深く此の地に下屋敷を建て朝夕の拝礼怠らず後年に至り今の涼矢倉の地に納涼殿を建立し涼神殿と稱へ此の殿へ6月15日には土居内大明神の御神幸を仰ぎ納涼祭を毎年取り行なはせらる。又四季の祭典に奉納の金子も多額に上がりと云ふ

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寄松の灯籠一対(下高倉東字寄松)

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 寄松の米井知博宅の北側の坂道を上ると、道の両側に灯籠が建っている。灯籠には「奉燈 氏子中」、別面に「安政二乙卯年」と記されていて、1855年の建立である。

 建立当時には近くに寄松神社があったが、東作誌によると当時から杉森神社(現在の高倉神社)は下高倉村東分と西分の氏神であった。また、この道は若林を越し宮東を経て杉森神社に通ずる道で、東分の上塩を除く各部落からの参道に当たる。このことから、灯籠は杉森神社への奉燈で、下高倉村東分の氏子が西分との境界に近いこの位置に建てたものと考えられる。(文:高倉の歴史と文化財より)

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二宮神社の遺跡碑(下高倉東字二宮)

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 上塩(じょうしょう)の米井孝裕宅の裏山に二宮神社の跡地があり、「村社二宮神社遺跡碑」が建っている。碑の裏面に刻まれた碑文には、「訓令第22号発布 明治44年4月20日下高倉神社に合祀し高倉神社と改称 祭神は 伊弉諾・伊弉冊命 天長年間(824~834)に奉祀」 また、「社殿の梁6尺桁3尺5寸、拝殿の梁15尺桁22尺、鳥居8尺3寸、社地9畝26歩、神田2反7畝歩、山林4反3畝歩」とある。

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寄松神社の遺跡碑(下高倉東字寄松)

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寄松神社の遺跡碑(よりまつじんじゃのいせきひ)

 寄松の木多克雄宅の北方、下高倉東と下高倉西の境を通る畝道に面した山の中に村社寄松神社の遺跡碑がある。

 碑の右側面に記された碑文には、「本社は人皇七代孝霊天皇の御宇(ぎょう)36年(紀元前255年)に紀州熊野神社から諾冊二命(伊弉諾・伊弉冊命)を勧請(かんじょう)し祭神とす」 「氏子20戸之を崇拝、明治44年5月20日改称した高倉神社に合祀」とある。氏子は寄松組合(合祀当時19戸)が主体と推察できる。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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