藤和田神社(王子大権現・車戸神社)久米町(領家)
藤和田神社(領家)
祭神は、伊弉諾命・菅原神・天穂日命である。
此の社は正暦4(993)年8月、近江國犬上郡多賀村に鎮座の多賀神社の 分霊を勧請したものであるので祭神は多賀神社と同一の神であるはずであって「かれ、其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀になもまします。」(古事記上巻)と あって多賀神社の祭神は伊邪那岐大神であるので、藤和田神社の祭神は当然伊邪那岐命であることは申すまでもないことである。
藤和田神社(領家)
祭神は、伊弉諾命・菅原神・天穂日命である。
此の社は正暦4(993)年8月、近江國犬上郡多賀村に鎮座の多賀神社の 分霊を勧請したものであるので祭神は多賀神社と同一の神であるはずであって「かれ、其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀になもまします。」(古事記上巻)と あって多賀神社の祭神は伊邪那岐大神であるので、藤和田神社の祭神は当然伊邪那岐命であることは申すまでもないことである。
荒神様は同族神として祭られている場合が多く、その祭りは霜月(十一月)が多く、十一月も二十八日が多い。ご神体は石が最も多く、幣・木像が之についでいる。像容は多くは忿怒形の男神様で三面六臂(さんめんろっぴ)であるが、まれに女神像もある。(文:久米町史下巻より)(2014年3月29日取材)
2016年3月24日(木)津山国際ホテルに於いて「つやま和牛」内覧会がありました。
当日は生産者のみなさんや、流通業者、各メディアの方々大勢が招かれ「つやま和牛」の誕生を祝いました。津山国際ホテルの藤枝進総料理長は「捌(さば)いてみると、油がとても良質で、お湯でさっと洗い流せ、しかも手がつるつるになる。味も良質でとても美味しい。」と太鼓判を押されていました。本当に食すると実にうまい!ただし、まだ頭数が少ないので津山でしか味わえません。
つやま和牛とは?「つやま和牛の定義:津山生まれ、津山育ち、月齢28カ月以上の牛、津山産小麦ふすまを300㎏以上給与」です。現在7戸の農家さんが41頭を肥育されています。
2016年3月21日(月) 8:30 〜 16:00.津山市、鏡野町、勝央町、奈義町、美咲町でつくる津山圏域資源循環施設組合(管理者・宮地昭範津山市長)の総合ごみ処理施設「津山圏域クリーンセンター」(岡山県津山市領家1446番)の竣工式が行われました。この日は途中からあいにくの雨模様になりましたが、1市4町の首長や地元住民ら多数の方が式典に参加しておられました。
津山圏域クリーンセンターは、焼却灰のセメント原料化、及び焼却熱を利用した発電など、資源の有効活用により、循環型社会の一端を担うとともに、ごみの減量化、及び、リサイクルの推進に関する普及啓発並びに環境学習を推進する拠点施設として運営されます。
子守様(かもの夜話から) (2015年11月12日取材)
戸賀の氏神様は、子守宮といいイザナギ・イザナミの夫婦神を祭祀してある。
むかしから嬰児の夜泣きに霊験があり、夜泣きのはげしい子を持ったものが、参詣して「お猿のぬいぐるみ」をお借りして帰り、子供の着物の襟につけ、御利益を得てお礼参りの時に「お猿のぬいぐるみ」を二つにしてお返しする。近時、霊験あらたかにして、参拝者が多くなってきています。
秋の大祭は9月9日であり、冬祭りは12月10日、神様所有の田にできた米で当番三軒で甘酒を作り、甘酒祭りをした。
明治末期、神社合祀で塔中の軒戸神社に合祀したが、その後分離帰村して、もとの宮地に鎮座します。今は、春の例祭は4月10日、秋の大祭は10月10日に執り行ない、傘鉾の御神事があります。
大勢の方々のご参拝をお待ちしております。 戸賀部落 加茂町観光協会
津山城への闖入者(ちんにゅうしゃ)
城の警備は厳重を極め、不審者が入り込むことなどあり得ないというのが、一般的な城に対するイメージでしょう。確かに、城への出入りは簡単ではないですが、町人や農民からは全く隔絶した場所というわけではなく、さまざま人々が通行手形を得て、日常的に出入りしていました。そんな場所ですから、ときには不思議な事件も起きるのです。では、京橋門の番人の報告から、ちょっとした騒ぎのようすを見てみましょう。
文化元年(1804)の8月17日、昼過ぎのことでした。京橋門の番人二人は不審な人物を目にして、声をかけました。その男は、単の着物を身につけ、尻をからげて鉢巻をしていました。そして、手には白木の箱を持っていました。ふだんだと京橋門は、城内の武家屋敷への用事で入る者も多く、厳しい監視はしていないのですが、このときばかりは少し気になったというのです。
第11回「院庄たかのり祭り」(春季大祭)が、2015年4月12日に執り行われました。毎年4月第2日曜日に行われるまつりは、多くの参詣者で賑わいます。今年は、さくらは既に散っていましたが、多くの老若男女が訪れて盛りだくさんのイベントを楽しんでおられました。また、作楽(さくら)神社は、鎌倉時代に美作(みまさか)守護職の館があったところで、境内全体が大正11年(1922)に国指定の文化財(院庄館跡)となっています。
(第9回 院庄たかのりまつり)
荒神様
笠森神社の西南の山の中腹に石垣で一段と積み上げ、その上立派な祠と共に祀られている。百姓の神、牛馬の神、また子供の神様として宮参りに子供と共に参る。折掛樽も供える。元気に育ってほしいと願い又部落の守護神でもあり、年の暮れから新年にかけて多くの人が今日も参っている。牛を買ったり、かえた時も、仔牛が生れた時も「牛の仔祝い」といって荒神様に酒を供えていた。(文:北恵兆さん)
浅野長直の指示によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。赤穂城跡は軍学に従って築かれた城であり、徳川幕府が始まって約50年後に築かれたにも関わらず、その構造は戦を強く意識しており、複雑に折れ曲がる石垣、角度を違える諸門に特長があります。城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある舟入は船が出入りできるようになっています。 昭和46年に国史跡指定を受け、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定され、文化財の修復・復元はもちろん、都市公園としての整備も進むなど、赤穂市のシンボルにふさわしい城跡として蘇りつつあります。(文:(一社)赤穂観光協会HPより抜粋)
大石邸長屋門 この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約二十六・八メートル、奥行 約四・八メー トルの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。かっては、内蔵助と主税 の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。
安政三年(一八五六年)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。
更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県及び市の負担により、総工費三、一三八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。 赤穂義士会(文:説明板より)