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加茂神社には崇道天皇の御陵がある。

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加茂神社由緒
鎮座地 津山市加茂町公郷字菊水山1,399番地
御祭神 味鋤高日子根命/伊弉諾命/大山咋命/伊弉册命
配祀  大巳貴命/崇道天皇
祭日  大祭 例祭 10月第2日曜日/祈年祭 4月29日/夏越祭 7月25日に近い土曜日/新穀感謝祭 11月25日に近い日曜日
本殿  流造
末社  八幡神社、御先神社、美保神社、英霊神社、養老神社、若宮神社、天満神社
 本社は、旧杉大明神と称し勧請年月興廃の沿革等不詳なりといえども、古昔より古老の口碑によれば往古苫北郡と称する時一ノ宮と尊崇される。桓武天皇の弟早良親王の御陵あるを以て崇道天皇と改称する。
 明治6年2月加茂神社と改称し、尚、能野神社、元公郷上分字高場に、又、日吉神社公郷下分字日野目に古昔より鎮座ありしを明治42年5月2日本神社に合祀した。昭和7年7月7日雷火の為炎上し同8年4月再建立する。昭和43年3月26日、加茂町指定文化財に指定された第一号秋草双雀鏡は青銅の鏡(平安時代)で境内裏山から明治15年に発掘されたものです。加茂町観光協会協賛 (看板より)2012年8月22日取材

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田熊 木山信仰を継ぐ下木・大町の木山様と牛頭天王

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 広戸川を渡り、大町の集会所のそばを通って東の山に登り、植月の県林業試験場に抜ける山道が通っている。軽四ていどの車ならば上がって行ける山道であるが、その山頂近くの道端に、木山様の鳥居が見えて来る。
 林に囲まれた木山様にふさわしい静かな境内に、二つ御社が配祀され、よく手入れされた神社らしきたたずまいを見せている。
 昭和拾年
木山神社御社再建立 正遷座祭 欽行
 壱月参拾日
 二つ社殿には、昭和10年(1935年)に再建されたことを表わす、次の棟札が納めてある。
 木山氏子下木・大町連中としてこの再建にかかわった住民29名の氏名が、別札に銘記されている。
 さらに、今一つの御社には、国歌安泰・氏子安穏を祈って、「奉再建善覚神社一宇成就」と記された、同じ年代の棟札が納められている。
 木山様を祀る御社内には、明治十年丑(1877年)四月八日の奉納札もあるが、古い棟札として、天保2年(1831年)の再建を記した棟札がある。境内には、安永5年(1776年)と刻んだ古い浄水鉢も置かれている。
 数十年おきの再建を考えるならば、江戸時代半ば以前からの信仰と言えよう。
   天下泰平 天保二辛歳 祭主 金藤豊後守
齋奉再建立木山午頭天王感應一宇成就息 受延命處
 国土安穏 卯八月吉日 藤原正清謹書
2012年9月9日(日)取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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田熊 雨乞いが行われた山頂の竜王様

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 田熊分広戸川の東側に小字大町・下木集落があるが、その東側山地の山頂部に龍王様が祀られている。木山様の近くと聞いて訪れたが、海抜200mほどの山頂部は、平坦地ではあるが樹木が茂って道もふさがっており、案内なしには、たどりつけない状況であった。
 地元の婦人でさえ、話は聞いているが、お参りしたこともなく道は知らないと疎遠な様子であった。今や存在がうすれかけているが、かつて龍王様は、農民にとって水田の用水の確保のために欠かせない天の雨をつかさどる大切な神様であった。天候不順でとりわけ田植え時期や夏分に何日も雨が降らない干天が続くと、熱心に龍王様を拝み、やぐらを組んで大火を焚くいわゆる千駄焚き(せんだたき)をして雨乞いを行った。水源の浅い広戸川は、干天続きには水涸れを起こしやすいことから、龍王さまを祀る必要があったと考えられる。
2012年9月9日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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明治の講組文書等を保存の下木お大師様

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この公会堂の中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。
 下木の場合、お大師様を祀るお籠り堂が古くなったので、昭和57年、その場所に集会の便利を考えて、集会所に建て直した。大町の場合も同様で、阿弥陀様があった場所へ公会堂を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。
  仏様がこうした位置にあるということは、お大師様なり阿弥陀様が、寄り合いの度に日常的に親しめ、信仰できる便利さを考えてのことであり、昔からの信仰と結び付いた村の暮らしの一端を伺わせるものである。
 とくに、下木の公会堂の中にあるお大師様には、明治期の、四国八十八カ寺納経帳(集印帳)・講連中議定書・毎月講定約書等の関連文書が保存されていて、村の暮らしを考えさせられる貴重なものなので、紹介しておきたい。(2012年9月9日取材)

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五穀寺(旧勝北町大吉)


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五穀寺(大吉) 2012.9.2
 日本原高原を見渡せる高台にある五穀寺は、山号を作本山、院号を豊饒院とする真言宗東寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。寺伝によると応永年間(1394~1428)高野山宝性院宥快上人の開基と伝えられます。本寺の住職であった大僧正岩原諦信師(1883~1965)は、高野山大学の講師をつとめたこともあり、わが国の声明(仏教音楽)の権威として知られています。国語学者の金田一春彦氏が寺を訪れ、師の教えを受けました。(神社と寺院より)
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廣戸神社(大吉字平野)

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廣戸神社(大吉字平野) 2012.9.2取材
 「美作神社資料」によれば、宝亀元年(770)、山城国(京都府)男山八幡宮(石清水八幡宮)を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と唱えました。その後、文治5年(1189)に廣戸村大吉字宮の奈留に社殿を移し、応永5年(1398)大吉字平野に遷座しました。
 祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・大山祇命・武内宿禰・須勢理比売命・志那津比古命・志那津比売命の7柱の神です。境を接して建てられた廣戸神社と五穀寺の境内は、奈良時代から始まる神仏習合(混淆)の姿をとどめています。
(神社と寺院より)※神社よりいただいた沿革は最後に載せてあります。
祭神:品陀和気命 大山祇命 息長帯命
    武内宿禰 須勢理比賣命 支那津比古命
    支那斗辧命 (大雀命)風神社...
※廣戸神社の宮司さん曰く、風神社は今は自衛隊の基地で着弾場になっているそうです。鳥居の1本が残っているとか。

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上山棚田で復活した盆踊りと幻想的なセレモニー必見!

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2012年8月12日(日)上山神社で8年ぶりに盆踊りが開かれました。祭りが復活すると言うことで取材をさせていただきました。


元々の住人も、最近暮らし始めたMLATも、週末里山暮らしの英田上山棚田団も一丸となって。
盆踊りも、踊りを知っている人、見よう見まねで踊る人も一緒に輪になって踊ります。
露店では、かき氷、焼き鳥、焼きそば、たこやき、ヨーヨー釣りなど大にぎわい。
抽選会も、スーパーのマルイさんのご協力もあって豪華景品。
MLAT1日貸し出しの権利なども上山集楽住人限定で用意されました。

盆踊りのフィナーレは、スカイランタン。天燈飛ばしです。
恐らく日本初。・・・・・(文:上山集楽より) 続きは上山集楽のHPで!


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小田中の聖徳寺の「和霊祭」にお邪魔しました。

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聖徳寺(岡山県津山市小田中1416)の和霊祭がありました。(2012年7月30日(月)午後5:00~)
  和霊大明神の功徳と由来
 当寺の鎮守、和霊大明神は厄除け の神として、また願い事は必ずかなえてくれると 言う津山地方で名高い神様で、祭神は山家清兵衛公頼公(やんべ せいべいきよ もりこう)といい、四国は 伊予の宇和 島藩の家老で、仙台藩主・伊達政宗の子、秀 宗に仕えた人。公は藩主を助け藩政上に手腕をふるい、大いに治績と名声あげま したが、その反面これを怨みに 思う者が出てきて、謀略にあい殺された。時に元  和6年夏清兵衛25歳でありました。 この時、公は死ぬ間際に、「われに救いを求め る者には、われ必ず、その願いを聞かん」と言い残して、息を引き取ったという。
その後藩主が山頼和霊神社として、公を祭神としてお祭りするにいたった。聖徳寺は この山家清兵衛公頼公を祭神とする和霊神社の分神を当寺の鎮守として祭っています。
  毎年7月30日は縁日として、夜7時より和霊まつりをおこない、夏の夜に堂内で大般若転読法要また境内にて柴灯大護摩の祈願法要を行ないました。(情報提供:聖徳寺

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上賀茂神社(津山市原字荒神)

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 勝加茂原字荒神にある。祭神は火産霊神・素戔鳴命・味鉏高彦根命・下照姫命をまつる。原村往古より勝加茂西上(現上村)鎮座の若王子権現を産土神としたが、明治十年その氏子を離れてもともと荒神社のあった地に社殿を建立し、旧来の荒神社の祭神に西賀茂神社及び朝吉神社の分霊を勧請合祀して、上賀茂神社と号した。(歴史めぐり資料より)2012年7月8日取材

「美作神社資料」には、「和銅元年鎮座、大永五年山名太郎左衛門常清の社殿再興、正保七年以来氏子よりその費用を献進する」とありますが、その拠るところが明確ではありません。「勝北町誌」より

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曹洞宗 清涼山 正覚寺

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曹洞宗 清涼山 正覚寺 (2012年6月24日取材)
縁起
 当院は曹洞宗太源派に属する寺で、作陽誌には次の通りに記述されている。
 本尊千手観音 鎮守春日大明神 本寺夢中山幻住寺 境内東西百七十間南北六十五間となっている。本尊は千手観音となっているけれども現在の本尊は釈迦三尊であり、鎮守は白山大権現である。
 久米郡旭町大字北にある夢中幻住寺第二代の住職大庵洞益(1434~1461永享6年より寛正二年まで二十八年間住職)は長禄二(1458)年、今の大字宮部下、久保神社の西隣に地に小さな寺を建て、「普門寺」と称した。しかし此の寺は未だ本山からも認められておらず従って寺格もない平僧地であった。
 夢中幻住寺は永禄年中に失火、永禄九(1566)年より天正十九(1591)年まで二十六年間無住、其の後天正十九年に法山存悦が幻住寺に入った。
此の人は元和五(1691)年迄二十九年間住職として幻住寺の復興に尽して功績のあった人である。此の法山存悦が幻住寺復興に尽した経験と才幹をもって宮部地方の人々に説き、喜捨を集めて、寺地を宮部上村の王子に定め、前記の普門寺をここに移して寺院を建設したのである。
であるから此の寺の開基も開山も実際には法山存悦であるけれども、普門寺の開山である幻住寺第二代の住職大庵洞益を迎えて勧請開山に据えたのである。
時代はわからないが法山存悦の幻住寺10色在任中の天正十九年から元和五年に至る二十九ヶ年の間と推定する外ないのであって、かいざんは実際よりも百二・三十年も前に遡って長禄二(1458)年の普門寺の開山そのものが此の寺の開山とされたわけである。
 作陽誌(西作誌)は元禄二(1689)年から元禄六(1693)年までかかって森藩の編纂した地誌であってこの頃ではすでに山号(清涼山)も寺号(正覚寺)もあり、本尊は千手観音、鎮守は春日大権現で夢中山幻住寺を本寺とするちゃんとした寺院に成長していたのである。(全文:『 久米町史』より)
曹洞宗 清涼山 正覚寺 本尊 千手観音 (津山市宮部上1663)

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