2014年元旦に泉水寺で火渡り行がありました。
下田邑の泉水寺で1年の無病息災や家内安全などを祈る火渡り行が行われました。
私もおっかなびっくり!初詣の参拝者と共に火渡り行をしてきました。(2014.1.1)
火渡りは古くから修験道に伝わる儀式だそうで、とても厳かな儀式でした。読経や弓を使った清めの儀式の後、護摩壇に点火し、燃えた炭火の上を住職らが先陣を切って渡り、その後を檀家さんや参拝者が続きました。
下田邑の泉水寺で1年の無病息災や家内安全などを祈る火渡り行が行われました。
私もおっかなびっくり!初詣の参拝者と共に火渡り行をしてきました。(2014.1.1)
火渡りは古くから修験道に伝わる儀式だそうで、とても厳かな儀式でした。読経や弓を使った清めの儀式の後、護摩壇に点火し、燃えた炭火の上を住職らが先陣を切って渡り、その後を檀家さんや参拝者が続きました。
小田中笠松のカウントダウン花火(年忘れ花火大会)
https://www.e-tsuyama.com/report/2013/01/post-402.html
https://www.e-tsuyama.com/report/2012/01/post-107.html
『服部定山 遺作展』(2012年12月18日取材)
〇会期:12月15日(日)~1月19日(日)入館料:無料(2F常設展は500円)
年末年始は12/28(土)~1/4(土)まで休館となります。
本年4月に亡くなられた成道寺前住職・服部定山氏の「書」、「陶芸」約200点を一堂に展示いたします。服部定山氏は若い頃から趣味として陶芸や書、篆刻などに親しみ、特に陶芸は、津山市老人会陶芸教室の講師も勤めました。
美作国ミステリースポットとして紹介されている中の【殺生石の由来】 (岡山県真庭市勝山にある曹洞宗の寺院『化生寺(かせいじ)』)
九千年を永らえた白面金毛九尾の古狐が唐より帰朝する吉備真備の船でわが国に密航する。約四百年間身を隠したのち、鳥羽法皇の寵妃(ちょうき)『玉藻の前』となり、ご寵愛を一身に集めたその頃、時の帝近衛天皇は、重い病に伏され、ご生母美福門院(びふくもんいん)は、天文博士安部康成に大祈祷を命ぜられると正体を現した妖狐は那須野原へと飛び去った。2013年12月8日(日)
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泣清水の碑(美作国theミステリーの中で紹介されているミステリースポット)
この南に昔水田があり、東西に流れ落ちる水音が哀調をおびていたので、この地を泣清水と呼んだ。伝説に、父の仇討を首尾よく果たした清水鶴と亀の孝女姉妹が住んでいた哀愁の地。更に勝間田の「お花」が津山城下に赴く時、最後の別れを泣いて惜しんだ悲哀の地でもある。(2013年12月3日碑より)
没後二年 美作の四季を描くと題して「河野 磐(こうのいわお)スケッチ展」が勝央美術文学館で開催されている。213年12月8日(日)まで。河野 磐さんの描いた風景は暖かくて心が和むものでした。また、存在感のある映画のポスターや演劇のポスターなどが並んでいます。是非、足を運んでみてください。また、河野美術館へもお出で下さい。2013年12月3日取材(取材協力:勝央美術文学館)
2013年11月30日(土)~2014年3月16日(日)【9時から17時(入館は16時30分)】
場 所:津山洋学資料館 ※問い合わせ:0868-23-3324(津山洋学資料館)
和算と言えば難解だと思われがちですが、それを昔の人はスイスイ難問を解いていたのですから偉いですよね。今よりはるか昔に杭などの測量器具で精密な計算ができた和算ってすごいですよね。測量器具の本物をこの機会に是非ご覧ください。
浄土宗の開祖、法然上人が学問成就を祈願してさした杖が芽吹いたといわれる。この天を覆う銀杏の巨樹は、国定公園那岐山の古刹、菩提寺の境内で歴 史の重みをかさねながら静かに息をひそめつつ立っている。目通り周囲約12メートル、高さ約45メートル、樹齢推定900年といわれ県下一の巨木である。 昭和3年、国の天然記念物に指定され、また全国名木百選にも選ばれている。町では、イチョウを町木に指定し、その保護に力を注いでおり、町民一人ひとりの 心の中に大銀杏が息づいている。(奈義町教育委員会案内板より)2013年11月28日取材 (2012年11月にも詳しく取材しております。)
宮ヶ峪集落の東、農免道路(市道NO66号)沿いの八幡山に八幡神社があった。東作誌には「本社四尺四方、南向き、鳥居あり」と記されている。
山頂に本殿の敷地と思われる平地があり、農免道路ができる前は石段もあったと伝えられるが、氏子として祭祀に当たっていた地域や改廃の時期等については不明である。(2013.6.14取材)(文:高倉の歴史と文化財より)
この古墳は剣戸13・14号墳が正式な名称ですが、330年程前キリシタンと共に幕府から弾圧された日蓮宗不受不施派の信徒である佐伯の本久寺の住職日勢 聖人がこの古墳を最期の地と定め閉じこもりました。この話が伝わり、建部の4人の女性が共にこの古墳で最期を迎えたことからこの名で呼ばれています。(2013.10.30取材)(資料提供:さら山ビジョン研究会)