比丘尼塚(びくにづか)(津山市福田)
この古墳は剣戸13・14号墳が正式な名称ですが、330年程前キリシタンと共に幕府から弾圧された日蓮宗不受不施派の信徒である佐伯の本久寺の住職日勢 聖人がこの古墳を最期の地と定め閉じこもりました。この話が伝わり、建部の4人の女性が共にこの古墳で最期を迎えたことからこの名で呼ばれています。(2013.10.30取材)(資料提供:さら山ビジョン研究会)
古墳
剣戸古墳群と東塚・西塚
この一帯には、六世紀から七世紀にかけてつくられた多数の古墳があり、佐良山古墳の中の剣戸古墳群とよばれています。その支群には、丸山古墳群(消滅)、中宮古墳群(九基)、高野山根古墳群(三基)、剣戸古墳群(十二基)などがあります。前方後円墳の高野山根一・二号墳以外のほとんどは円墳です。横穴式石室をもち、中に陶棺を納める例が多いのが特徴です。
この剣戸東塚(十四号墳)も円墳で、横穴式石室をもつ古墳の一つです。墳丘は、直径約十九メートル、高さ約四メートルあります。石室の規模は、奥行き九・五メートル幅約一・八メートルで、高さは約二メートルです。
寛文九年(1663)日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)の青年僧日勢とうら若い四人の女性信者は備前藩の宗教弾圧に抵抗し、この石室内で、題目一途に数十日の断食生活を送り、命を絶ちました。このことから、法華塚あるいは比丘尼塚ともよばれています。
この古墳西側にも、ほぼ同形同大の横穴式石室墳があり、剣戸西塚(二十三号墳)とよばれています。かつて、陶棺が発見されたと伝わっています。ともに六世紀の終わりごろにつくられた古墳とみられます。平成15年8月 津山市教育委員会(文:案内板より)
古墳入口
古墳中
古墳横から眺める
福田五人衆
備前での寛文の法難は、藩主池田光政によって不受不施派への徹底的な弾圧が加えられた。備前佐伯本久寺住僧の竪住院日勢聖人は難を遁れて作州に潜入後、寛文9年(1669)2月に此の塚を断食終焉の地と定めて入篭せられた。奥壁に向かい読経唱題しつつ玄題を刻み、従う4人の比丘尼と共に入定される。
日勢聖人 3月13日寂 41歳
妙意尼 3月18日寂 34歳
妙定尼 3月21日寂 21歳
妙現尼 3月24日寂 22歳
妙勢尼 3月26日寂 42歳
平成21年 高祖会砌
日蓮宗不受不施派 立正護法会建立 (案内板より)