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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,905件の記事が見つかりました。

岡松山 福善寺(加茂河井)

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岡松山 福善寺(加茂町史より抜粋)

 当寺は河井にあって、岡松山福善寺と号し、古義真言宗(本山京都大覚寺)の中本山円通寺(鏡野町)の末社であり、本尊は薬師如来である。

 開基は不明である。寛政元年(1789)に堂宇は全焼し。同4年に再建した(『苫田郡詩』)

本尊薬師如来は坐長二尺五寸、脇立阿弥陀大師は二尺五寸で、いずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)の『東作誌』に記されているものである。檀徒数は、昭和2年に75戸(『苫田郡詩』)。2012年9月20日取材(文:加茂町史より抜粋)

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龍王山 金剛寺(津山市西上)

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金剛寺は1000余年の歴史を持つ真言宗のお寺で、開祖は第三代天台座主の円仁阿闍梨(慈覚大師)。
円仁阿闍梨は、天台宗を開いた最澄の愛弟子であり、最後の遣唐僧として天台宗を完成させました。日本で最初に朝廷から「大師」の名を授かった人であり、日本各地に多数の寺を開山されております。そのうちのひとつが、龍王山 金剛寺です。
開山のいわれ 
金剛寺 第四世 玉林院宗盛法印により 延宝五年(丁巳)卯月朔日 記載
 今から約1000年ほど前に、貞観年中に比叡山第三世の僧、円仁阿闍梨という僧が、中国地方を行脚し、新野村 (現在の津山市 西上・西中・西下にあたる) に一宿されました。
 そのとき、ある主人から
  「この頃、山のふもとに光るものが出る」
ということを聞かされ、不思議に思って行ってみたところ、丈5寸(長さ15センチほど)の聖観音様がゆったりと石の上に立っておられ、そのそばに一人の翁が灯明を捧げておりました。
阿闍梨は「なにゆえここに居られるのか?」と問われました。
翁、答えていわく
 「この観音菩薩は、九ヶ月以前に辰巳のほうより一人の行者持ち来たり、利益のある菩薩から、これを護ってくださる人を待っておった。我はこの山の主、龍王なり。」といい、峰に昇り去りました。
 円仁阿闍梨は早速信者を集め、力をあわせて伽藍を建立し皆と共に信仰することとなりました。その寺を「龍王山 金剛寺」 と名づけ、神仏を祀り諸々の供養をしたりしているうちに、円仁阿闍梨は、再び諸国行脚の旅に出られました。
 その後、観音堂は月覚聖人、掘坂村の内村宗盛を経て、楠木氏後胤、大先達玉林院智観法印よりその子孫に受け継がれ続け、第十七世となる現住職まで続いている。(情報提供:龍王山 金剛寺)
龍王山 金剛寺 〒708-1221 岡山県津山市西上502
電話0868-36-5738/HPはこちらです。 (2012年10月2日取材)

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妙法山 経王寺(津山市下野田)

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 山号は妙法山、日蓮宗・日蓮宗津山妙法寺の末寺でした。『下野田誌』によれば、本尊は三宝尊・宗祖尊像です。天正(1573~92)のころ、宇喜多氏の老職をつとめた岡豊前守家利が植月中村(現勝央町)小山の堡(宮城城)に住み、元亀時代(1570~73)に討ち死にした親せきや家来の菩提を弔うため、京都の日蓮宗妙顕寺に請願して宮山城跡の下に寺を建立し、妙法山経王寺と号しました。そののち本寺を下野田村に移転しました。(勝北町誌「神社と寺院」より)2012年9月28日・10月2日取材

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城西まるごとフェアー2012

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2012年10月17日(日)10:00~16:00に、2012年第17回津山城西まるごと博物館フェアが「手仕事のまちが蘇る アート&クラフト展」と題して作州民芸館周辺で執り行われました。当日は売り切れ御免でクラフト展、模擬店広場(城西のなつかしい味が大集合)、城西お宝さがし、ミルクホール、木工教室、西小学校図画展示、作州絣の実演・体験。また、城西浪漫館ではカフエ、むかし話の部屋、西小科学教室、城西レトロ市場、ステージ広場ではちびっこ達が大活躍などなど盛り沢山のイベントでした。

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河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂

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 上原の丘陵端に民家より少し離れて、新築整備されたお大師堂がある。掲げられている額に、「苫勝霊場 第十九番本尊 地蔵菩薩」とある。 
 苫勝霊場○○番とは、かつての苫田郡・勝田郡地域の八十八ヵ所めぐりの札所(観音霊場)を言うのであって、戦前の八十八ヵ所めぐりが大変盛んであった歴史を伺わせるものである。霊場めぐりは、農閑期の春先に遍路姿で杖をつきながら歩き、数十人の団体で巡回していた。数日がかりの巡回のため、時折、上原中の民家が総掛かりで遍路宿をつとめ、世話をしていたと言う老人の話である。

 そもそも、八十八ヵ所めぐりは、観音信仰に由来し、観音霊場三十三ヵ所札所めぐりの発展した、四国の八十八ヵ所(弘法大師霊場)めぐりを示すものである。八十八基の石仏などを並べてあるのは、この霊場(札所)詣での写しで、多くの場合は、石仏などの前に、そこに示した寺院の土を埋めてお砂踏みをし、参詣と同じ意味を持たせている。八十八ヵ所の札所に参ると、それぞれ米粒を供えていく「御撒米」や、5円、10円などの硬貨を1枚づつ「御賽銭」として供えていく形の信仰は今も続いている。

 歴史的には、養老2年(718年)に西国三十三観音霊場が創設されて、弘法大師(空海)のゆかりある四国八十八ヵ所霊場が、平安初期(920年頃)創設された。一般大衆が、本格的に霊場巡りをするようになったのは、明治の20年代からと言われ、四国の場合徒歩で約60日かかっていた。そのため、苫勝の事例のように、全国各地にこれに代わる数日で参拝できる巡礼コースが創設された。

 上原の19番霊場は、四国八十八ヵ所19番霊場である徳島県小松島市の立江寺の本尊=延命地蔵菩薩を勧請されている。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、弘法大師の刻んだ仏像があり、阿波藩主蜂須賀公により再建された古刹である。地蔵菩薩そのものは、観音の化身の姿であり、延命地蔵は、人の苦しみを救うばかりかいざという時、身代わりとなって災難から助けてくれる、霊場あらたかな地蔵尊として信仰が厚い。上原では、一時、薮の中で薄汚れていた石仏であったらしいが、今再びよみがえり、毎日のように線香や蝋燭が絶えない住民の熱心な信仰が続いている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012.9.17

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明治の講組文書等を保存の下木お大師様

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 田熊分広戸川の東側山手に、下木(北)と大町(南)の集落がある。それぞれ集会所があるが、この公会堂の中に下木ではお大師様が、大町ではお大師様、お薬師様が祀られている。
 下木の場合、お大師様を祀るお籠り堂が古くなったので、昭和57年、その場所に集会の便利を考えて、集会所に建て直した。大町の場合も同様で、阿弥陀様があった場所へ公会堂を建てており、いわば仏様がもともとの本家であった。
  仏様がこうした位置にあるということは、お大師様なり阿弥陀様が、寄り合いの度に日常的に親しめ、信仰できる便利さを考えてのことであり、昔からの信仰と結び付いた村の暮らしの一端を伺わせるものである。
 とくに、下木の公会堂の中にあるお大師様には、明治期の、四国八十八カ寺納経帳(集印帳)・講連中議定書・毎月講定約書等の関連文書が保存されていて、村の暮らしを考えさせられる貴重なものなので、紹介しておきたい。(2012年9月9日取材)

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五穀寺(旧勝北町大吉)


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五穀寺(大吉) 2012.9.2
 日本原高原を見渡せる高台にある五穀寺は、山号を作本山、院号を豊饒院とする真言宗東寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。寺伝によると応永年間(1394~1428)高野山宝性院宥快上人の開基と伝えられます。本寺の住職であった大僧正岩原諦信師(1883~1965)は、高野山大学の講師をつとめたこともあり、わが国の声明(仏教音楽)の権威として知られています。国語学者の金田一春彦氏が寺を訪れ、師の教えを受けました。(神社と寺院より)
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廣戸神社(大吉字平野)

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廣戸神社(大吉字平野) 2012.9.2取材
 「美作神社資料」によれば、宝亀元年(770)、山城国(京都府)男山八幡宮(石清水八幡宮)を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と唱えました。その後、文治5年(1189)に廣戸村大吉字宮の奈留に社殿を移し、応永5年(1398)大吉字平野に遷座しました。
 祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・大山祇命・武内宿禰・須勢理比売命・志那津比古命・志那津比売命の7柱の神です。境を接して建てられた廣戸神社と五穀寺の境内は、奈良時代から始まる神仏習合(混淆)の姿をとどめています。
(神社と寺院より)※神社よりいただいた沿革は最後に載せてあります。
祭神:品陀和気命 大山祇命 息長帯命
    武内宿禰 須勢理比賣命 支那津比古命
    支那斗辧命 (大雀命)風神社...
※廣戸神社の宮司さん曰く、風神社は今は自衛隊の基地で着弾場になっているそうです。鳥居の1本が残っているとか。

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福井 庶民に根づいた修験道信仰役行者の碑

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 福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
 この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
 石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
     明治六年癸酉   福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
     九月九日      講 中
 これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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