2024年4月7日の高野神社のさくら
津山市二宮にある美作国二宮「高野神社」は森藩2代藩主長継が再建した神社です。
2024年4月7日に高野神社で「春祭」が行われました。残念ながら催しには参加できなかったのですが、午後から参道のさくら並木を訪ねてきました。中でも私のお気に入りは、宇那提の森(ムクノキ)(市指定天然記念物)で、度々訪れてきました。長い年月佇んで何を見てきたのか問いたくなります。
(海外の青年たちと2009年の秋祭りに参加)(二宮地区の情報も入れていりますのでご覧くださいね。)
津山市二宮にある美作国二宮「高野神社」は森藩2代藩主長継が再建した神社です。
2024年4月7日に高野神社で「春祭」が行われました。残念ながら催しには参加できなかったのですが、午後から参道のさくら並木を訪ねてきました。中でも私のお気に入りは、宇那提の森(ムクノキ)(市指定天然記念物)で、度々訪れてきました。長い年月佇んで何を見てきたのか問いたくなります。
(海外の青年たちと2009年の秋祭りに参加)(二宮地区の情報も入れていりますのでご覧くださいね。)
2024年3月27日(水)~4月14日(日)津山文化センターのリニューアルにより新設された2階の屋外テラスにて、期間限定のカフェ「テラスカフェ in 津山文化センター」(雨天時は3Fアートギャラリーで、10:00~16:00)がオープンしております。
「テラスカフェ in 津山文化センター」は、津山文化センター主催で、ゆっくりお茶を飲みながら、目の前に広がる鶴山公園のさくらを楽しむことができます。また、雨天時は同じく新設されたアートライブラリーで雨でも濡れることなく、お花見を楽しめます。おススメです。
2024年3月24日に行われた「10周年記念津山音楽コンクールの上位入賞者披露コンサート」が、音楽文化ホールベルフォーレ津山にて開催されました。
その会場に史上最年少で「ショパン国際ピアノコンクール in ASIA」プロフェッショナル部門で銀賞を受賞した中島結里愛(ゆりあ)さんを訪ねてきました。
中島結里愛さんは、現在14歳(岡山県立津山中学校2年生)で、昨年12月28日に横浜みなとみらいホールで行われた第14回ヨーロッパ国際ピアノコンクール in ジャパン特級部門(年齢制限なし)において、金賞(第1位)と、杉谷昭子賞及びグランプリをトリプル受賞されています。
204年3月27日津山市西寺町にある日蓮宗 延寿山 本行寺境内のひがん桜が満開を迎えています。
先日、新しく植えられた啓翁桜(けいおうざくら)が満開になっていると連絡を頂き3月19日と27日に伺って来ました。10年前には境内になった見事なしだれ桜の木もあったのですが、老木となり淋しい姿になっていました。啓翁桜はまだ若木でそんなに大きくはないのですが、ひがん桜よりはやや薄いピンクの可憐な花びらが咲いていて、とても可愛いさくらの花でした。また、根元には他の数本の啓翁桜も咲いていて、これから大きくなって楽しませてくれると思います。
2024年3月7日津山商工会議所女性会の2月例会(親睦委員会主催)で、淡路島日帰りバス旅行に参加してきました。午前9時津山を出発して一路淡路島へ向かい、昼食会場のオーベルジュフレンチの森にて昼食をいただき、昼食会場から淡路島の沿岸のリゾート施設を眺めながら約30分後、目的地の水仙の丘へ到着、早速清々しい空気を胸一杯吸いながら水仙の丘を散策。その後、すぐ近くの伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)に参拝。途中から語り部の方がバスの中で絵本を見ながら説明をしてくださいました。伊弉諾神宮では神社の由来や君が代、さざれ石の由来、神宮参拝の作法など多くの事を学ばせて頂きました。そして、たこせんべいの里、淡路ハイウエイオアシスでお土産を買い込み帰路へ着きました。皆さん、大変楽しい旅で大喜びでした。
済露山 高蔵寺(真言宗御室派)の由来
聖武天皇の御代、神亀三年二月、今から約千二百年前に僧行基が創建したものといわれ、観音堂(開山堂ともいう)の本尊は千手観音である。
後醍醐天皇は隠岐配流の時、当寺に立ち寄り、建武中興後千手堂を修補したと云う。
森家の建てた御霊屋(おたまや)には藩祖森長俊の座像を中心に、左右には可児弥五左衛門(かにやござえもん)と河合斉宮(かわいいつき)という初代両家老木像が祀ってある。なお、現在の本堂ともいうべき大師堂には、弘法大師を祀り、高蔵寺中興の祖ともいうべき仁可上人の木像が横に安置してある。(文:『森一族秘話』より転載)
神亀2(725)年、播州佐用郡に虹光に耀き良い香り漂う山があるとの報せを受けた聖武天皇は、行基上人にその調査を命ぜられた。上人は、その山を巡り一心に祈り七日目に白髪の翁が現れ「汝が来るのを待っていた。我が像を刻んで祀らば人々に利益を与えん」と告げ千手観音にその姿を変えた。それから千日かけて彫り上げたのが本尊の千手観音と云われている。古くから朝廷や歴代領主に庇護され、後醍醐天皇は元弘の乱で隠岐に配流された際に立ち寄り、再起の戦勝祈願を行った。江戸時代には三日月藩主・森家の菩提寺となり、霊廟や三重塔が建てられるなど隆盛した。播磨西国三十三箇所10番札所。西日本播磨美作七福神のひとつ。(文:佐用町観光協会HPより転載)
建物は旧陣屋で現存する唯一の建築遺構です。(三日月町指定有形文化財建造物平成14年指定)
三日月藩の創建当初には無かったことがわかっていますが、建物の創建年代を明確にする史料は発見されていません。江戸時代後期(寛政三年1791)の古文書に「御物見」の記述がありますので、1700年代の後半には建立されていたと考えられています。
櫓(矢倉)とは、敵の襲来を見知したり、矢を射たりして防御性を高める軍事目的の建物でした。
しかし、この建物は、堀川に大きな出格子を付け、二階には床を設けた書院的な造りで、藩の接待などに使われていました。また、二階からは眼下の武家屋敷や街道が見渡せる絶好の位置で、堀端での武芸の試合を藩主が謁見した記録も残っており、江戸後半期の平和な時代の性格が良く表れています。
明治17年に三日月町の広業小学校に移築され、明治44年に村役場や公民館として再び移築されました。二度の移築にもかかわらず、屋根瓦や建物の一階の柱を除いた主要な構造材、出格子、階段など江戸時代の部材がよく残っていました。この建物は、これらの部材を解体し、現在の位置に復元したものです。(平成14年3月復元工事完成)(文:現地案内板より転載)(佐用町許可済み)
比叡山延暦寺を本山とする当寺は、千百余年の歴史をもち、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の御作、聖観世音菩薩を御本尊として安置していますところから、弘誓山 観音寺といいます。
《寺暦》
平安時代の天安年間(857~859)、比叡山第三祖慈覚大師(じかくだいし)によって、間山に(高福寺の一院としての説がある)創建された。その後(年代不詳、間山では火災説がある)、田井観音免(地名)に移転したが、天文十三年(1544)大洪水に遭い、御本尊以外の宝物・古文書等を流失し、建物は廃頽した。このため草創以来七百有余年の盛衰については詳らかではないが、田園化した田井寺跡は現在「観音面」の地名で残っている。(文:天台宗 弘誓山 観音寺の案内から抜粋)(2023年11月29日撮影)
2024年2月3日に行われた徳守神社「大節分祭」が大勢の人出で賑わっていました。
午後3時半から行われた第一部の豆まきでは、厄払いを受けた男女が特設舞台にあがり、舞台の上から福豆や菓子等をまくと、みんな我先にと手を伸ばして福豆やお菓子などをキャッチしていました。第二部の午後6時半からは節分祭及び追儺神事があり、その後豆まきが行われました。
※追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事のこと。
三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。
三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。