蒜山の戦争遺跡を訪ねて

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2022年8月25日(木)美作歴史ネットの地域研修会があり、参加してきました。
 さて、今年で最後となる地域研修は、真庭市蒜山原の戦争遺跡を訪ねることにしました。蒜山原には、古くは明治35年(1902)から大正6年(1917)まで置かれていた陸軍軍馬育成場、そして昭和10年(1935)から同20年(1945)まで秘かに軍事訓練が行われた蒜山原陸軍演習場がありました。これらに関する遺構は、戦後77年を経た現在も往時の面影を留めてくれています。演習場の実態に少しでも触れ、先人の大戦を再考する機会にしていただければと思います。(文:橋本惣司会長)


蒜山高原と戦争
 1935年(昭和10年)から終戦までの1945年(昭和20年)にかけて、蒜山高原には陸軍の演習場がありました。日中戦争と太平洋戦争の時代です。演習場とは、実際の戦争を想定して訓練する場所のことです。当時、蒜山原陸軍演習場は日本一の規模でした。観光地として知られる蒜山高原ですが、戦時中は戦車や砲弾を用いた大規模な模擬戦争、毒ガス使用、射撃や行軍(こうぐん)など厳しい訓練が、昼夜行われていました。蒜山には当時の遺跡がいくつか残されています。

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津山市役所を出発。現地案内は、蒜山郷土博物館 前原茂雄館長です。

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お昼ご飯は勿論ジンギスカンでした。

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現在の蒜山の風景

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蒜山戦争遺跡マップ               蒜山高原と戦争

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完成記念碑                   旧・蒜山高校本館

 八束廠舎が完成したことを記念して、1937年(昭和12年)に建てられました。文字は当時の師団長が書きました。日本一の規模の演習場が完成したことは、陸軍にとっても大きな誇りでした。

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※学校用地につき許可を得て入っています。

八束廠舎(しょうしゃ)
 兵舎は軍隊が泊まるための、簡単な造りの家屋です。八束廠舎がある敷地には、兵舎や馬を飼う厩舎(きゅうしゃ)、弾薬庫、練兵場などがありました。現在は、岡山県立勝山高校蒜山校地になっています。八束廠舎では内側の様子が簡単に見られないよう、目隠しのため周辺に植樹がされていました。

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※学校用地につき許可を得て入っています。

軍用倉庫
 演習場には、物資や道具を入れる倉庫もいくつかありました。この建物は敷地内の別の場所から移されたものです。

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蒜山高校時代の通用門              岡山県立勝山高校蒜山校地前

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※私有地につき入れません。           ※私有地につき入れません。

戦車庫
 戦車を収納したり整備したりしていました。戦後は壁や窓が作られ、周辺住民の住居や倉庫に使われました。

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川上廠舎
川上廠舎には、兵舎と上級将校が住む建物がありました。現在は、周辺が真庭市立川上小学校になっています。

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門柱(東門)(八束)
 河原の石をコンクリートで固めながら積み上げた柱です。当時、門柱の傍らには門番役の衛視(えいし)が立つ小さな建物がありました。通行には衛視による尋問と持ち物検査が必要でした。

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門柱(東門)[もんちゅう(ひがしもん)](八束)
東門は1935年頃に建てられたものです。
ここは蒜山原陸軍演習場(1935-1945年までの間、兵士の戦闘技術を育成するための場所)の東門として使用されていた門柱です。
 現在は道路の拡張工事によって片方しか残っていません。当時は小屋があり、門番がいたそうです。門番は出入りする人達を厳しく取り締まっていました。この門柱は石を積んでコンクリートで固めて作られています。このような門柱が現存していることは全国でも珍しいようです。

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門柱(東門)の説明(八束)

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厩舎(きゅうしゃ)の一部を移築したもの(八束)

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ひるぜん大根の畑                軍馬育成場時代の土塁

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トーチカへの道                  トーチカへの道

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トーチカとは、コンクリートなどで覆われた堅固な拠点です。

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当時、蒜山には8基ほどありましたが、現在は2基が残るのみとなっています。攻撃の際には進軍の砦(とりで)となり、防御の際には銃口を向けて徹底抗戦する拠点となります。

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軍馬育成場時代の土塁が残っています。

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※私有地につき離れて見てください。

監的哨(かんてきしょう)
 監的哨とは、砲弾の着弾を目視して確認するための施設です。演習では蒜山三座の中腹に向かって野砲(やほう)の射撃訓練が行われました。野砲は、砲台に車輪がついている大砲の一種です。

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マップ                    

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地下壕へ急ぐ                  前原館長から説明を受ける。

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地下壕入り口 ※通常非公開 特別な許可を得て入っています。

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地下壕(ちかごう) ※通常非公開 特別な許可を得て入っています。
 壕とは、敵の攻撃から身を守るための溝や穴、施設です。蒜山には2ヶ所が確認されています。大きなものは2mほどの高さがあり、地下には複雑な通路が広がっています。花崗岩をすべて手掘りしたものです。

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地下壕                     生々しいカンテラのススの跡
※通常非公開 特別な許可を得て入っています。

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カンテラのススの跡 ※通常非公開 特別な許可を得て入っています。

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(文:現地パンフレットより)(2022年8月25日撮影)