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嵯峨井堰・嵯峨用水【さら山地区】

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▲嵯峨井堰(2011.4.11)(2016年の嵯峨用水にかかる水車の記事)(嵯峨山のつつじ
 寛永9年(1632年)津山藩主森忠政が改修を命じたのが始まりとされています。
 工事は難航し、村のために自ら人身御供になった「お福」さんの悲しい伝説も残ります。
 昭和37年の台風で決壊し、改修工事に着手し昭和47年に完成して、現在に至ります。
 (全長240m、満水時保有水量4万t)

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中山神社

▲中山神社本殿(国指定重要文化財)建造物大正3年4月17日指定

中山神社の沿革
  文武天皇慶雲四年(707)の創祀。貞観六年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。
  平安時代の代表的説話である「今昔物語」には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」では関西に於ける大社として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。
  国家非常時(元寇など)には勅命により特に全国七ヶ国の一宮(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)を選び、国家安穏を祈願せしめ当社も其の中に選ばれて祭祀を厳修したとされる。
  建武中興破れて約四百年間は、美作国中戦乱の巷と化し、永正八年(1511)と天文二年(1533)の両度に祝融の厄に遭い宝物・古文書等悉く焼失したが、永禄二年(1559)に至り、出雲国尼子晴久が戦捷報賛の為、社殿を再建し歴代藩主の崇敬厚く、「一宮さま」と親しまれ、明治四年(1871)六月には、国幣中社に列格す。
  現在も、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。

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美和山古墳群(みわやまこふんぐん)

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国指定史跡 美和山古墳群(指定年月日 昭和52年3月8日 指定面積 32,025㎡)
美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群です。北から1号墳(胴塚)(前方後円墳、全長80m)、2号墳(円墳、蛇塚、直径34m)、3号墳(円墳、耳塚、直径37m)と60年度の確認調査で発見された6号墳(円墳、直径16m)の4基の古墳で構成され、地元では「伝説」にもとづいて、それぞれ胴塚、蛇塚、耳塚と呼びならわしています。
  1、2、3号墳とも、墳丘斜面を直径30センチ程の葺石で覆い、円筒埴輪や器財型埴輪が用いられていることが分かっていますが、埋葬施設などはいずれも未発掘で分かっていません。 
  各古墳の大きさや、発見されている埴輪、古墳の形などから考えて1、2、3号墳は、古墳時代前半期(4~5世紀)にこの地域で勢力をのばした豪族の墓であると考えられます。
  また、戦国時代(14~16世紀)この地に美和山城が築かれていたことが文献にしるされていますが、1号墳の東西の張り出しはその美和山城の土塁の跡とみられます。

2009.8.16取材
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