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取材記事内を検索ワード「徳守神社」で検索した結果,108件の記事が見つかりました。

神崎与五郎と勝間田宿、下山本陣

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 忠臣蔵といえば、赤穂浪士の復讐の物語で、全国津々浦々まで知れ渡っている。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが、元禄15年12月14日であったため、現在に至っても年の瀬が近つくと、必ずといっていいほどメディアによって放映さている。
 私が太平洋戦争のさなかに勝間田国民学校に在学していた頃、毎年12月14日には、先生に引率されて、黒土地区にある赤穂浪士の1人神崎与五郎の両親の墓参りをしていた。その頃から神崎与五郎が私たちの郷里で、家族と共に何年か過ごした後、播州赤穂藩に仕官したのどということが分かり、子ども心にも誇らしく思っていたものである。
 神崎与五郎則休は、美作津山藩主森家に仕えていた神崎又市光則を父として、寛文6年(1666)津山城下で生まれた。生母は元禄3年(1690)8月に病没し、津山市愛染寺に葬られている。

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文化財めぐり(渓花院「於郷」)

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西寺町・渓花院跡(新高倉稲荷神社境内とその南東)
寺院としての渓花院の由緒:臨済宗東海派。
 渓花院の没後、元和初年に夫の関成次が亡き妻の菩提を弔うため、天倫を開祖として墓所の側に堂宇を建立。承応元年(1652)大名の待遇を得た次男の関長政により装飾が加えられ、長男で藩主の長継からは10人扶持を寄進。隠元が「渓花院」の3文字を大書した銅製の扁額もあったという。森家改易で関家が新見に移ると衰退し、無住となる。明治17年(1884)の時点で、境内は東西17間(約30m)・南北14間半(約20m)。明治末期に今の倉敷市連島辺りに移転したらしく、弥勒菩薩を本尊として本堂・庫裏・土蔵など630坪の境域と信徒300人を有し、岡山の国清水の末寺として亀島に渓花院という臨済宗妙心寺派の寺院が存在したとの記録があるが、その後に廃絶した模様で、その詳細は不明である。(矢吹正則『津山誌』・本源寺萬愚誌「森関宗廟由来記」・『浅口郡誌』参照)(2015年12月6日津山郷土博物館第107回文化財めぐり)


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千年寺の冬と椿の花

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 長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した千年寺に椿の花を求めて行って来ました。現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は 鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(詳しくは2009年の取材をご覧ください) 2015年12月28日撮影

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2016元旦の徳守神社初詣風景

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2016年1月1日徳守神社の初詣風景を撮らせていただきました。午前1時30分にもかかわらず境内にはまだ多くの若者が参拝していらっしゃいました。昨年何度も足を運ばせて頂き、多くの事を教えて頂きましたことを感謝し御礼を言ってきました。(以前の取材です。)

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2015年 徳守神社の秋祭り

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 2015年10月25日(日)徳守神社の本祭りが真っ青な秋晴れの空の下で執り行われました。
徳守神社の祭礼は美作津山藩初代藩主森忠政が慶長9年(1604年)に同宮を再建して間もなく始まったとされている、400年の歴史を持つ祭りです。
 だんじりが集合した奴通りでは、津山鶴丸太鼓や田町こども奴行列の踊りを始め、津山情緒のおどりなどが披露されました。また、御神輿が到着し、獅子舞や巫女舞等が奉納されお祭は最高潮になりました。今年はお花善神社の御神輿が子供神輿として、氏子の子供たちによって担がれました。

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2015年 宵のまち歩き「徳守神社の文化財だんじり見学」

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2015年10月24日(土)「宵のまち歩き」(宵祭りを楽しむ会)が行われ行ってきました。
 約30名が参加し、文化財のだんじりや神輿・田町子ども奴の練習風景を見学してきました。
まずは城西浪漫館長でもあり、だんじり研究家で知られる延原誠さんがガイドを努めてくださり、徳守神社の大神輿に続き、祭りの安全祈願に訪れただんじりについて説明してくださいました。その後、田町こども奴行列の練習に立ち寄りました。最後に、宮脇町の休憩所でお接待を受けながら、再度、各町内のだんじりの説明を受けました。参加者の皆さんはほろ酔い加減で説明を聞き大満足でした。

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新高倉稲荷神社(西今町)

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この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日

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お花の宮 善神社(徳守神社内)

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 お花の宮は、正式には「お花善神」です。むかし、勝間田(今の勝央町)にお花という美しい娘があり、津山藩森家の重臣原十兵衛の屋敷に行儀見習いの奉公にあがりました。
利発で性格がよく、十兵衛に信頼され寵愛されて赤ちゃんのお守りを命ぜられていましたが、ある時、ふと目を離した隙に赤児が縁から落ち、踏み石に頭をうって死んでしまいました。
お花の過失はどうしようもなく不運を嘆き悲しんだのですが、愛児を失った奥方の怒りは激しくお花を責めに責めて、とうとうなぶり殺してしまいました。

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徳守神社 摂社「住吉神社社殿」

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徳守神社 摂社「住吉神社社殿」〔平成17年津山市文化財に指定〕
 社伝によれば、慶長九年、森長継公が津山城下の総鎮守として建立した徳守神社の元本殿とされています。その根拠として、この社殿の建築構造から建立年代を推定すると17世紀初期まで遡ることが出来ます。
 現在同じ建築様式で現存している建物としては、八出天満宮本殿「寛永十四年(1637)」千代稲荷神社本殿「天和三年(1683)」〔いずれも津山市指定文化財〕があるが、これらと比較しても数十年は先行した建物と推定されています。

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徳守神社 神徳の碑

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徳守神社 神徳の碑 (2015年5月2日取材)
徳守神社境内の北やや西よりに、末社の大国主神社がありますがその東隣りに円筒型の石碑がたてられています。この石碑に「県社徳守神社御神徳碑」と刻まれています。これは明治19年のこと、境内に土砂を入れてローラーでかためる作業が行われていましたが、当時の小田中村新田(今の小田中神田)の立石良次郎という人が、ローラー作業をしながら陰陽二柱神社の前に差し掛かった頃、誤って転倒しローラーの下敷きになりました。骨が砕け命を失うかと思われましたが、不思議なことに、身体が土中に埋もれ、かすり傷1つ負わなかったそうです。人々は皆、神様のご加護と感動し、このローラーの石を他に使うことを止め、徳守の大神様の神徳を称える碑として建てられたということです。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)

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