『津山に残るなつかしの映画チラシ』展(後半)
昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。
昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。
蓋がされ道路として使用されている神田川と嵯峨水路の合流地点付近に有る西条柿の木の根本に包まれて僅かばかりが見えていたのですが、現在は新しく全体が見えるようになっています。昔から通称賽の神様と呼ばれ地元神田に入ってくる災難や疫病を払う儀式の場所として、お正月のとんど焼きや盆の仏送りの場所としても使用されていました。また同じ場所に一ノ宮方面への道順を示す道標も埋まっています。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)(2015年5月9日取材)
2015年5月10日のイナバママとスタッフの皆さん。「本当に皆さんに感謝です。」とイナバママ
母の日全国から届いた花束の数々にイナバままも嬉しそうでした。勿論浩志さんからも届いてました。
当山は天台宗二祖慈覚大師の創建による。
今からおよそ1150年の昔、開祖された円光寺は、当時その他に大日堂、薬師堂、西光寺、因果寺、宝林寺等の多くの諸堂があった。しかし、天文、永禄(1559年)の頃から次第にすたれはじめ、元禄2年(1689年)には、現在の円光寺だけとなった。
仁和3年(887)~寛平9年(897)代に精舎の創建を見るに至ったと伝えられている。当時は、宇多天皇の宇多をとって宇多寺と呼んだ。(2014年3月29日)
国府台寺の前にあるお宅の花壇に色とりどりの花を咲かせるシャクナゲ。
とてもかわいかったので、許可を頂き写真を撮らせていただきました。(2015年5月3日)
道祖神の場所から西へ40メートル程進んだところに権ノ庄のお大師様があります。建立された年度は不明ですが、元々紫竹川の氾濫の多い場所を鎮める目的で、紫竹川から少し小高い部分に建てられたいたことが、付近の地名に安岡屋敷そうき畑の地名が残る事から分かります。現在は老朽化の為に平成16年12月に町内会と個人寄付により建て替え落慶法要を済ませました。その後、年二回の老人会の行事として長雲寺の住職の導師作法により法要を営んでおります。(文:つやま城西まるごとまち自慢より抜粋) 2015年4月8日取材
2015年4月12日に奈義方面へ所用で行きましたら、那岐山麓・山の駅の眼下に広がる菜の花に心が和みました。昨年まで、菜の花祭りがあり楽しく拝見しておりましたが、無くなると聞き、がっかりしておりましたけど、今年は場所を変えて広がっていたのでとても嬉しかったですよ。
2015年4月8日の沼の住居址のつつじが綺麗です。
ここの竪穴住居の中央部にはイロリがあり、そのイロリを囲んで家族生活が営まれていたようです。竪穴住居址を調査すると、時には紡錘車という糸紡ぎの道具や鉄の 加工具、あるいは石の道具を作る際に出る石くずなども発見されるので、竪穴住居の中では布を織ったり、木や石の道具を作ったりもしていたようです。
長昌山 妙法寺本堂の前に植えてある枝垂桜です。(2015年4月9日~取材)
現在の妙法寺本堂は、県の重要文化財に指定されており、正面5間(16.9m)側面(18m)の大きな平面を持った堂宇である。鬼瓦の側面の記載により1653年頃の完成と思われる。他に市の重要文化財に指定されている鰐口がある。
湿田の中でも、山西の西がわの低い山の間の棚田は雨が降ると水であふれ、その水が「あと口」から流れ出てはつぎつぎに下の田に落ちます。そのたびに水の落ちた所が土をおし流し少し深くほれてきます。そこを「あと下」とか「あとあな」と言いました。そのくぼみにはいつもフナやドジョウが集まるので、手あみやソウキを持ってとりに行ったものです。またそこには、カラスガイが生まれ、住みつきここで大きくなり、ときには10センチ以上にもなりました。そのカラスガイをつるのもとくべつの楽しみでした。