天竺山 圓明院 興禅寺(美咲町)

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天竺山 圓明院 興禅寺
 当山は、遠い昔天竺の国の摩訶迦羅神(大黒天)がしばし天竺山に留まられたことから、天竺山一帯を寺域として貞観三年(861)開山されました。
 開山後は、元暦元年(1184)に、近江の人で錦織天丞勝重と名乗る武人が、西国における合戦に赴く際に、興禅寺に詣で堂宇を寄進しました。 
 元亀三年(1572)嵯峨山城落城の時に兵火より、天竺山中にあった興禅寺が消失したため、光禅庵跡の現在地に本坊を移されました。
興禅寺文化財
・仁王門と山高龍雲作金剛力士像    ・安篋印塔(南北朝時代)
・広瀬台山(酔翁亨図)        ・不動明王、毘沙門天、普賢菩薩・光後玉江の記録文書
 興禅寺住職であった戒般和尚に弟子入りし、仏門に入ると共に、江戸末期から明治にかけて地域医療につくされた女医です。当山には、光後玉江さんの診療の記録(患者届書控)や、西洋医学古文書の写し(ワートル薬性論等)等を保管しています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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この寺院には江戸末期から明治にかけて使われた医術に関する文書が多数ある。
 当時錦織地内で医業を行っていた光後玉江女医の残したもので、処剤録・医学書のほか光後家と交際していた箕作阮甫・野上玄雄・柳田元策といった人々が書いた手紙も大切に保管されている。
 当時の日本の学問は、漢学から洋学へと急速な転換をしていた。
 この大転換期における地方史の資料として貴重なものである。美咲町教育員会(現地案内板より)

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境内

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境内と山門                   水子地蔵

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地蔵

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仁王門と山高龍雲作金剛力士像

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境内

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客殿

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本堂

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 この宝篋印塔は鎌倉末期から室町初期のころに作られたと推定される。
塔身の縦の長さと横の長さがほとんど同じであること、笠の隅飾りの外側の線がほゞ直立していること、基壇反花座の複弁のふくらみ等にその時代の特徴が見られる。
 基礎・格隙間の間に刻まれた梵字は後の人が刻んだものだろう。塔全体は、調和のとれた美しい姿をしている。美咲町教育委員会(文:現地案内板より)

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境内

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庫裡(2019年10月6日・11月30日撮影)