取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「」で検索した結果,126件の記事が見つかりました。

山野草公園でアジサイを拝見!(奈義町)

nagi-ajisai31.jpg

 2020年6月19日の曇り空でしたが、奈義町高円591-1にある山野草公園にアジサイの花を求めて行ってきました。橋の上から覗くことはあったのですが、下まで降りて散歩するのは初めてでした。
 山野草公園は、那岐山麓一帯に自生している山野草を保護し、種を保存するために公園内に移植されたものです。約3.4haの園内には、サクラソウ・エビネ・サギソウ等の山野草20種類、約2万本が植栽されているそうです。行ってみると上から眺めるのとはまた雰囲気が違っていてとても広く感じました。それにアジサイの花が沢山植えてありましたし、つつじやなでしこ等の花が咲いていて良かったです。

山野草公園でアジサイを拝見!(奈義町)の続きを読む

スポーツ競技大会アートポスター展(勝央美術館)

syou-b-3.jpg

スポーツ競技大会アートポスター展に伺ってきました。
名前の知れたアーティストから、細かい手書き文字のみで描いた作品があり、とても面白いポスター展です。一部しか載せてありませんが、斬新な作品が多くありますので是非ご覧ください。


2020年5月22日㊎〜6月28日(会期延長:7/1㊌〜8/30㊐)※7/23は電気点検作業日で臨時休館
 来年に開催が延期された東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会をイメージし様々なアーティストたちが描いたアートポスターを紹介。(勝央美術館HPより)

スポーツ競技大会アートポスター展(勝央美術館)の続きを読む

冬の「奈義町総合運動公園」

nagikouen25.jpg

 2020年2月11日の冬の「奈義町総合運動公園」です。
ピンと張りつめた空気の中で、雄大な那岐連邦が見渡せる環境の良いところにある奈義町総合運動公園を訪ねてきました。前回も秋に訪ねましたが、何度でも訪ねたい公園でもあります。子ども達にとって思いっきり遊べる環境の良いところにあります。また、園内には、奈義海洋センターがあり、そのすぐ脇には立派なスケートボード場があります。スケートボードで遊びたい方には穴場です。

冬の「奈義町総合運動公園」の続きを読む

縫夢ingのデニムゆかた展示会がありました。

homing9.jpg

 2020年5月16日に岡山県勝田郡勝央町の縫夢ing(ホーミング)さんが、100%岡山産のデニムを使った上質な浴衣の展示会をされているとのことで奈義町高円の「そばカフェ木楽」さんに行ってきました。会場内では可愛い子どもの甚平が色とりどり並んでいたり、上品なデニムの浴衣が並んでいて来られた人々は楽しんでおられました。

縫夢ingのデニムゆかた展示会がありました。の続きを読む

橋本さん宅のレンゲツツジが満開でした。

hashimoto-syoo-9.jpg

 2020年5月2日、国道179号線勝央町付近で車を走らせていたら、鮮やかなオレンジ色のレンゲツツジが目に飛び込んできました。早速車を止めてしばらく見とれてしまいました。橋本さんが長年大切に育てて来られたそうです。「綺麗と言っていただき嬉しいです。」と橋本さん。この2倍くらいあったそうですが、ご主人が剪定?されたそうです。

橋本さん宅のレンゲツツジが満開でした。の続きを読む

後醍醐天皇が渡った「姿見橋」

sugatamibashi1.jpg

 出雲街道は、徳川時代に参勤交代の諸大名が、華々しい大名行列の絵巻物を繰り広げた道筋であり、その昔は官道と呼ばれ、都から石見・出雲地方に文化を運んで作州を東西に貫いた重要路線であった。
また、この道筋は、元弘の乱(1331年)には、後醍醐天皇が北条高時のために至上の御身を、遠流の鳳輦に委ねられ、隠岐の狐島に遷幸の砌、史蹟をとどめられた哀史の道でもある。
 元弘の乱後(1332年)、後醍醐天皇は播州今宿より杉坂峠を越えて梶並川の東岸「火の神」の渡し場に着かれた。この渡し場から川を渡り、渡里・上相を経て、岡の高塚山南麓の丘上に、間山の高福寺の寺領であった草庵を仮の行在所と定められ、仮寝の夢を結ばれたということである。
 翌朝、天皇は行在所をご進発にあたり、その南にある池畔の野橋の上に、暫くご駐輦になり、幾度かの敗戦に、おやつれになった龍顔を、池水に写された。
 この古事を伝えて、後にこの橋を「姿見橋」と名付けたとされている。
 この橋は、昭和47年の構造改善事業のために取り壊されたが、後醍醐天皇をしのび、史蹟碑が建てられ現在に至る。(木村増夫著 『勝央今昔滝川のほとり』より)
平成9年4月 岡地区史蹟保存会

後醍醐天皇が渡った「姿見橋」の続きを読む

美作の大庄屋巡り「木村家」

kimura-h-4.jpg

木村家 木村治右衛門 勝南郡勝間田村 森藩~甲府領 完宿藩
大庄屋まで
 木村氏の出自は諸説ある。その一つは毛利氏の家臣龍門帯刀が帰農し、その子孫与左右衛門が木村を称したといわれるものである。
大庄屋として
 森藩の助成で、河原の多い勝間田の低地の大規模な開田工事が行われたとき、下山和十郎、木村治右衛門は、現在の新町、当時中河原と呼ばれた荒地を開発し、新田、井堰を造成した。その功績によって下山家は津山藩の本陣に、木村治右衛門は大庄屋に任命され、木村家は勝山藩、松江藩の本陣、脇本陣を勤めた。

美作の大庄屋巡り「木村家」の続きを読む

金龍山普陀洛院 見正寺(勝央町)

kensyoji16.jpg

第十二番 金龍山普陀洛院 見正寺
 当山開山の源は弘仁十五年(824)、諸国を行脚し、御修行中の弘法大師よりお告げを受けた、海圓上人の開創と伝えられています。
 寺号はお大師様直々の命名によるもので、向かい側の神山愛宕山から眺める威容は「正に金の龍を見る如し」という意味を以て、金龍山見正寺と授けられ、本尊は正観世音菩薩です。
 寛永年間においては、国主・森忠正公の一周忌法要を奉修し、その深夜諸堂を焼失しましたが、寺社奉行より再建料年貢米を下腸され、僅か二年を経ずして、再建落慶法会を修行できるほどの信仰と隆盛を極めました。
 その後幾度か焼失しましたが、再建される度に諸堂の全てを西向きに統一されていたことから、如何なる時も頑なに真っ向勝負を挑む人を「見正寺向き」と言う諺を生んだと伝えられています。
 爾来、時代は移り人は替るもご本尊様と社会へ奉仕を捧げながら、一山檀信徒各家の御先祖様、十方檀越諸聖霊に香華燈明の歴史を今に伝えています。
 現在の本堂、大師堂、庫裡等は、前の建物の老朽化のため、平成四年檀信徒の熱き信仰と総意により再建を発願し、六年に及ぶ歳月を経て、平成十年に見事に完成したものです。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

金龍山普陀洛院 見正寺(勝央町)の続きを読む

2019 勝央町のイルミネーション

syoo11.jpg

 2019年12月14日勝央町公民館前のイルミネーションを拝見してきました。
この日はクリスマスコンサートも開かれていたようで、賑やかな歌声も聞こえてきました。また、子ども連れの家族の楽しそうな会話もあり、イルミネーションは人の心もホットにさせるもんだなぁ~と感じました。可愛いハートのイルミネーションがあったので、ハートの中にぎゅっ!と収めてみました。

2019 勝央町のイルミネーションの続きを読む

青勝窯 勝間田焼きの窯だし

katsumadayaki7.jpg

 2019年10月14日に青勝窯(勝田郡勝央町岡)の勝間田焼きの窯だしに伺って来ました。ここでは、勝間田焼き復活会の皆さんがノースビレッジ北約200mの所の窯で仲間と共に勝間田焼きを続けておられます。奥田福泰のお話では、
 勝間田焼は、古墳時代に朝鮮半島から伝わった須恵器生産の技術を受け継いで焼成されたもので、青灰色で非常に硬質な焼き物です。その生産は勝間田窯(勝田郡勝央町)で行われ、現在窯跡として十数か所が確認されています。製品は碗・小皿の食器類からこね鉢等の調理具、壺、甕等の貯蔵具など多様で、主に美作地域から山陰まで広域に流通していました。しかし、鎌倉時代までに生産の終焉を迎えることになったそうです。

青勝窯 勝間田焼きの窯だしの続きを読む