2010年5月2日の愛染寺のぼたんの花
2012年5月2日の愛染寺の牡丹の花です。この日は雨が降っていたのですが、愛染寺の近くまで来ていたので牡丹の花は散ったのか気になって覗いてみました。まだ綺麗に咲いていたので写真に収めてきました。どうです!綺麗でしょ。牡丹桜は散っていました。(過去の取材)(過去のぼたんの花の取材)
また、今回は2012年4月28日のボタンの花です。まだつぼみが沢山あったので長く楽しめそうでした。■この他、愛染寺のぼたんが綺麗でした。(2010年取材)
清眼寺は、美作88ヶ所第56番札所・美作国七福神毘沙門天霊場として、多くの参拝者で賑わいます。別名ぼたん寺ともいわれ、毎年のぼたん祭りには、色とりどりの美しい大輪の花を咲かせ、参拝者を楽しませています。
真福寺(2011.6.24取材) ▲写真2012.4.17取材
瑠璃山日光院 眞福寺の略歴と沿革
当山は、天平12年(740)聖武天皇の勅りにより、太古行基菩薩開創し御本尊薬師如来を奉安され、始めは槍原地内に在って萬福寺薬師院と称していたが、現在地へは寛永年間(1624)移築され眞福寺日光院と改めたがその後、付近の火災の飛火に遭って全焼し寛文8年(1668)檀信徒より木材並びに労務の奉仕等により建立されたものです。
初代清誉上人より今日に至る迄、檀信徒聖霊香華燈明を掲げ、真言密教の寺として法燈を護り伝えて参りました。爾来、375年余の星霜を重ね近年に至っては特に老朽化し、平成5年に議題になり平成7年檀信徒の浄財等により改築を決定した。西暦2000年の節目に完成する。(情報提供:真福寺)★美作88カ所霊場会のホームページ
曹洞宗 圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)(2011.5.4)
開創 1525年(大永5年)
本寺 久米郡美咲町 夢中山幻住寺
開山 大網愚溪大和尚(幻住寺6世)
当山は、小森山圓福寺(中北上1319番地)と称していたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の名和長年に身を寄せられた1333年頃兵火によって焼失。
その後180年程そのままになっていたが、1516(永正13)年11月に幻住寺六世大網愚溪大和尚が、当時の岩谷城主大河原弾正の懇請を容れて、後に少林寺末寺となる観音寺となった地(中北上1161番地)に小庵を建立し、山号を山形臥龍に似たるを以て澤龍山とし、1525(大永5)年に「澤龍山小林庵」と称し開堂。
1597(慶長2)年、大河原弾正の三男智麟首座小林修理の修繕を得て、庵から寺に改称「小林寺」とした。
1767(明和4)年頃の中北上村は、相州小田原の大久保藩の領地で西川(現在の美咲町)代官所を設けて領内を支配していた。当山七世物外璿山大和尚が、その西川代官高橋文右衛門の賛助に依り、50余ヶ村民の出役を得て現地に移転し寺名を小から少に改め「少林寺」とした。
本堂・開山堂は、1993(平成5)年再建。本堂内には当山に金龍銀龍が舞う幅3・3mの見事な壁画が一対あり、津山市・山形弘画伯の作品である。
本尊「十一面観世音菩薩」は、岩谷城を築城した山名教清寄進の岩谷山慈悲門寺の本尊であったが、当時(戦国時代)の情勢により開基・大河原彈正が少林寺に移したものと伝えられる。【資料提供:曹洞宗 圓通閣 澤龍山少林寺】
瀧尾山 西法寺(2011.7.10取材)
この寺は天台宗(伝教大師・最澄)瀧尾山西法寺といい、天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺です。昔は妙原の大谷山にありましたが、山津波にあって寺が壊れたため、寛文11年(1671年)に堀坂へ移したもので、ご本尊は不動明王です。
お不動さんは右手に剣を左手に綱を持ち、左目を閉じ口を斜めに噛みしめ、しかめた顔をして体の色は青黒く、火炎を背中に負って険しい岩場に立っています。
大日如来の命令を受けて、人の心に住む悪魔を退治するといわれています。恐ろしい姿でですが、本当は心のさしい仏様で、心がよくない方向に向かっていると正しい方向へ戻してくださるといわれています。
この本堂は文政8年(1825年)に建てられたもので、本堂が無事に完成することを願って参道口に六体地蔵が寄付建立されました。また平成14年4月に内仏殿と庫裏を改築し内仏殿には阿弥陀如来を中心に、伝教大師最澄、檀信徒のご先祖を祀っています。
この寺は、加茂郷88ヶ所霊場第54番札所です。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)
本谷山 神宮寺(観音様)御堂(2011.7月9日、7月17日取材)
神宮寺(観音様)は元禄7年(1694年)掘坂と妙原の人々の浄財により建てられた十一面観世音菩薩が祀ってあります。今でも毎年7月16日の夕方から18日の夕方まで、人々が替わり合って昼夜鉦(かね)をたたき念仏を唱え、いろいろな災難や病気に罹らないように、一心に祈る習慣が続いています。
御堂の正面の壁(漆喰)には、鏝絵(こてえ)と言われる珍しい絵が鏝で描かれています。また御堂のなかには百万遍の念仏を唱えるのに使った数珠があります。
観音様を“南無観世音菩薩”と唱えると、火難、賊難、雷難、蝮難、薬難、病難、不慮の事故などからのがれると、お釈迦様が説かれた観音経の中にあります。
十一面観世音菩薩は頭の前に三つの優しい顔、左に三つの怒った顔、右に牙を出してほめている顔三つ、そして真後ろは大笑いしている顔一つ、正面を向いている顔一つ、これは同行二人を表しており、観音様の顔を入れて十二の顔となっています。
ここは、加茂郷88ヶ所霊場第53番札所でもあります。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)
▲志見山 岩尾寺(2011.5.8)
縁起略
聖武天皇の御宇、行基法師がこの地を訪れたときに、山中に病に臥す乞児を見つけられた。
上人が「どこか苦しいのか。もしよければ・・・」と訊ねたところ、乞児は「私は病に冒されていて、湯治に向かっているところでございます。」と答えたと言う。
それならばと、法師が乞児を扶けて、その温泉にいっしょに行くと、乞児は仏の姿となって「私は医王山に在る少彦名命(薬師如来の垂迹とされる湯治・病気平癒の神)である。仮に病の身となって、上人を試したのだ。」と告げ、忽ちに姿を消されたそうである。
これに感嘆された上人が、自ら薬師如来像を刻み、この温泉に安置されたのが、この寺の始まりとされている。(しかし、平成の今、寺内に温泉の湧出は無い。)
志見山 岩尾寺
所在 岡山県津山市吉見133
本尊 薬師如来
所属 真言宗大覚寺派
しかし、当時の建物は、兵火によって悉く灰燼に帰し、今は礎石が幾つか残るのみとなっています。現在の建物は津山藩松平氏の援助により、文政11年(1828)に再建されたということです。
https://www.e-tsuyama.com/knowledge/history/kokubunzi/kubunnizi.html