嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国の守護に任ぜられた際に築城されたものと伝えられています。その後、天正17年(1589)8月、野火によって焼け廃城になるまでの148年間、山名、赤松、浦上、尼子、宇喜多、毛利の各氏が、美作国の制覇をかけて激しい攻防を繰り広げられた舞台ともなりました。
城は岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に曲輪を配した複雑な梯郭式の山城で、本丸南に馬場、西南には石橋上や椿ヶ峪砦を設け、更に西には小分城を築き防備を固めていました。本丸東には二の丸を置き、その南には三の丸を配しています。東の谷の固めとしては、12本の竪堀を設けています。大手南斜面に見られる大小20箇所以上の防備のための郭は、美作地方では他に類をみないものです。他に井戸、慈悲門寺跡なども残っています。(2011.5.4)津山の文化財より
▲倉見川広瀬橋付近(津山市加茂町宇野)(2011.5.18)
田植えの終わった田んぼもありましたが、あちらこちらで田植えをしておられました。ここはとてものどかな所で、お訊ねした皆さんも穏やかな方達でした。地元の方にお訊ねすると、「ホタルがわんさか出るときもあるが、今年はすでにダムの放流があったので流されているかもしれない。」とのことでした。
今、津山には「ほたる」がわんさかいます。(2009.6.7)市立中正小学校近くの川にも沢山。
ほたるが飛び交うシーズンがやってきました。
友人に誘われ行ってきました。そして、とても感動したので皆さんにもおすそ分けをと意気込んでほたるを撮影しましたが、うまく撮れませんでした。
なので、昼間の様子を撮ってきました。また、懐かしい川魚のハエが沢山泳いでいました。
津山市宮部の川沿いでは、6キロにわたってほたるを観ることができます。
▲とんぼの里(とんぼの里公園は、津山市宮部上のキャンプ場です。)
ホタルの里からさらに進んだところにある、とんぼの里ではキャンプを楽しんでおられた地元の方に伺うと、「林の中を飛ぶほたるは、それはそれは幻想的です。それにここにいるのは野生のほたるなんですよ!」また「ホタルは蒸し暑い日によく飛んでいる」と教えてくださいました。
種類は、ゲンジボタル、ヘイケボタルだそうです。(2009.6.7)
毎年、6月中旬には、とんぼの里「宮部上ホタルまつり」があるそうです。
大自然のなかで育ったホタルを見に是非お出でくださいね!
▲ホタルの里公園(住所:津山市宮部上1804-2)
津山市宮部の川沿いでは、6キロにわたってほたるを観ることができます。
久米川の支流、宮部川の上流にあるホタルの里は、600㎡の公園となっています。
ここは休憩所やトイレがあります。(2009.6.7)
▲医王山城跡(2011.5.8)
標高340mの山頂に築かれた山城で、祝山城、岩尾山城とも表記されます。北東を大手、南を搦手とし南北に細長い曲輪を連ねています。本丸は北端にあり、東西12m、南北20mの平坦部の西側と北側に石垣が築かれています。北の峰続きは堀切で遮断されています。二の丸は、本丸の南方に細長く続く平坦部で東側の一部に土塁が確認されます。さらに、その南方に三の丸が位置します。
初めてこの地に築城したのは、南北朝期以前の上道是次であるとされています。その後、南北朝抗争の際、毛利方の湯原春綱が籠もり宇喜多勢と攻防を繰り広げますが最終的に美作は宇喜多領となりました。(文:『津山市の文化財』より)
▲2011年4月22日の美作国嵯峨山城跡は、つつじが満開です。(2011年3月に登ったときの様子)
久米の佐良山については作陽誌に【嵯峨山城跡とは】
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。
なお篠山をもってこれに擬し、或いは神南備山をもって佐良山に擬するなど諸説に分かれているが、この嵯峨山には文化13年(1816年)秋8月に小島広厚誌、太田貞幹書両氏により佐良山の碑が建立されている。この碑文によると、一応この山をもって佐良山としている。
▲篠山城跡(2011.4.10)
早春の佐良山の東面に位置する山々は、可憐な白い花弁を一杯に広げた純白の「辛夷」の花で彩られます。その中でも一番美しい群生を見せる場所として、「篠山」があげられます。
佐良山には「佐良山三座」と称される山々があります。「嵯峨山」「神南備山」そしてこの「篠山」です。古歌に「美作や久米のさら山さらさらに わが名は立てじ萬代までに」と謡われた「久米のさら山」を巡って、諸説が飛び交いいまだ決着を見ていない佐良山を取り巻く秀峰をいつしか「佐良山三座」と呼ぶようになりました。
ちなみに嵯峨山には、これぞ「久米のさら山」であるという「佐良山碑」(市文化財)が津山藩により1816年に建立されていますが、それはそれとして佐良山の人たちはこの美しい山々をこだわりなく誇りに思っていると思われます。